勉強犬作文コンクールお題「桃太郎」見本作品のご紹介
先日発表した通り、勉強犬作文コンクールを開催しております。
参加資格は誰でもオッケー。文章を書きたい人が、与えられたテーマについて書く。ただそれだけ。物語でも評論でも感想文でも構いません。唯一のルールは「お題」をどこかで使うということ。
今回のお題は「桃太郎」でした。誰でも知っている主人公ですね。
続々と生徒たちからも素敵な作品が届いています。ある者は桃太郎を悪役にし、またある者は桃太郎の桃に謎のフォーカスをし、そしてまたある者は桃太郎のその後を見事に描いておりました。
まだ執筆途中の子もいるため、選考途中ではありますが、ここである先生から素晴らしい作品が届きましたので、見本作品としてご紹介させていただきます。圧巻の内容です。ニヤニヤしながら読んじゃいました。
送ってきていただいたのは、ブログもとっても面白いエコール螢田教室の富田先生。ブログでも、ウィットに富んだその文体が大人気です。
そんな先生の作品ですから、もう正座して読みましたよ。
印刷したものと向き合い、タイトルを見る。
「おとぎ話を科学する」。
ふーむ、固い文章なのかな…と思っていたら、まさかのどんでん返し。もうニヤニヤしながら読んじゃいましたよ。いつの間にか正座は崩れ、のめり込むようにページをめくっていました。
内容、気になりますよね。まずは画像でご覧ください。
約2800字の傑作。
画像だと読みづらいという方のために、ブログ風にもしてみました。
おとぎ話を科学する
おとぎ話は、遠い昔に作られた非現実的なシチュエーションで展開される超科学的な物語である。つまり、現代におけるSFと同じ立ち位置の文学といえる。
しかし、SFは余りに荒唐無稽でリアリティに欠けるものは受け入れられない厳しい世界である。おとぎ話にも一定の現実性と説得力があるからこそ大衆に広まり、受け入れられてきた。
では、矛先を桃太郎に向けたい。桃太郎君にはとばっちりもいいところだが、彼の物語には最も有名にして最大のフィクションが存在する。これを見過ごすことはできない。
「桃から生まれた桃太郎!」
桃から人間が生まれるわけが無い、このように一蹴するのは簡単だが、もしかしたら現実にあるかもしれないという期待感がSFを面白くする。決して非科学的であってはいけない。超科学であるべきだ。あくまで科学をベースとした理屈があり、それを超えた概念がスパイスになる程度の味付けが好まれる。
では、「桃から生まれた桃太郎」なる現象が実際に起こりうるのだろうか。
もちろん答えは明快で、不可能だ。舌の根も乾かぬうちに全否定するのは心苦しいが、生物学的にとうてい許容出来るものでは無い。それでは先ほどの論と矛盾してしまうので、科学的な説明を試みたい。
「桃から生まれた桃太郎」はあり得ないが、「桃から出てきた桃太郎」は科学的に充分可能である。「生まれた」に感じられるロマンは無粋にも消え失せてしまうが、現象的には「出てきた」も「生まれた」も大差あるまい。要は、状況が再現出来れば良いのだ。
状況的に判断すれば、桃太郎は桃の子孫ではなく、名も知らぬ両親が存在する。その両親あるいは両親の関係者が生まれて間もない新生児を桃に格納し、老婆が川へ洗濯に来たことを確認した上でほんのわずかな上流から狙って流したのだろう。老夫婦が子どもを熱望しながらも授かることが出来なかった状況を把握した上で実行に及んだ可能性もある。
桃太郎を格納する桃の構造がこの計画の成否を左右することは言うまでもない。では、どのような造りが適当だろうか。
桃の内部が仮に羊水で満たされていたとしても、胎児の状態で桃に入ることはできない。桃には臍帯、つまりへその緒がないからだ。外の世界で生まれ、産声を上げて肺呼吸を開始したのちに桃へ入れられたと考えるのが自然だ。桃に入れるのが自然かどうかはさておき。
桃に閉じ込めてから老婆に拾われ、自宅に持ち帰って一刀両断するまで仮に3時間とする。時間的に2倍の安全マージンを取って6時間かかるとしても、それだけの酸素を確保しなければならない。通常成人が一日に呼吸で使用する酸素は600リットル程度。6時間だとその四分の一だから150リットル。空気中に占める酸素の割合は約2割だから、桃の内部に約750リットルもの空間を作る必要がある。桃の内部を球体と仮定した場合、半径60センチメートル弱の巨大な空洞になる。
新生児が入っているだけならそれほど巨大である必要はない。しかし桃太郎の物語中に「大きな桃がどんぶらこと流れてきた」とある。これは物言わぬ赤子が充分に呼吸をするのに足る酸素量を確保するための大きさだったと考えられる。
桃という果実もまた、乳児の運搬に適している。ある程度の果肉の厚みさえあればクッション性は申し分ない。また、乳児の天敵である乾燥も、みずみずしい果肉によって程よい水分が保障されているため問題にならない。これがカボチャだったら流れに揺られたとき中の乳児が内部の固い壁に衝突し、重篤な障害を残す危険性がある。もちろんカボチャ太郎ではネーミングの面でも締まらない。まるで駄菓子のようだ。
問題は重量だ。内部に空洞があるとはいえ、果肉部分の体積も相当なものになる。内部の小さな命を守るのに10センチメートルの厚みは持たせたい。すると果肉部分は一般的な桃の2000個分もの体積になる。桃1個の質量は約200グラム程度だから、およそ400キログラム。中の子どもの重量を無視出来る程度に大きくなってしまう。
もはやこんな大がかりな仕掛けをせず、いっそ赤子をそのまま川に流した方が手っ取り早い気もするが、生きて老婆の元にたどり着ける可能性はほぼ無い。何より桃太郎としてのアイデンティティが失われてしまう。
超重量の桃をどうやって非力な老婆が持ち帰るのか、それが桃太郎実現への最後の障壁となる。川を流れてくる桃の運動エネルギーは相当なものだが、流れが秒速1メートルの徒歩程度ならば、全力疾走してくる小学生と衝突するのと同等である。相手が老婆というところで若干不安視されるが、不意を突かれたのでなく心構えと身構えがあれば受け止められなくもない。
400キロにも及ぶ巨大果実を自宅まで持ち帰るのは、ほぼ不可能と思われるが意外とそうではない。物語中に持ち上げたという記述は無い上、手で持ち帰ったという記述もまた無い。
このことから、老婆は「偶然にも」荷車を引いて川へ洗濯に来ていたと考えるのが妥当だろう。洗濯物が大量だったことがうかがえる。長い人生でも見たことの無い巨大な桃に心奪われ、あろうことか大量の洗濯物を放棄してまで、その貴重な果実を持ち帰ったのだろう。
荷車に積み込む際、傾斜角度を10度程度にしてやれば何とか人力で乗せることが可能だ。球体を固い棒状のもので押していけば、てこの原理が自然と働くため、一層容易なものになる。
しかし、瞬間的な作業は可能としても、いささか老婆のスタミナ面に不安要素はある。
ここで爺の存在を忘れてはならない。山へ芝刈りに行った記述はあるものの、帰宅して初めて桃を目にしたという確証はない。つまり、桃を確保した老婆が狼煙を上げ、爺と合流して作業に当たったとしても不思議なことではない。
また、山へ芝刈りに行ったのは確かだろうが、老婆は「山中にある」川へ洗濯に行ったのかもしれない。となれば比較的近距離だったので、共同作業をしていた可能性はかなり高い。たまたま爺に関する記述が無いだけある。叙述トリックだったのかもしれない。
こうして無事、桃を回収して持ち帰ることが可能であると判明した。桃太郎はあたかも桃から生まれたかのように振る舞い、老夫婦も整合性に齟齬を感じつつも、家庭に新しく加わった子どもを歓迎するだろう。
科学的に考察してみると、桃太郎を状況的に成立させることは可能である。まるでドラマ撮影の裏側を覗いている風で趣に欠ける側面は否めないが、充分にSFとして成立しているといえよう。
科学的な面を離れると、果たして奇怪な要素はまだ多い。
その中でも最大の謎は、恐らく世界最大と目される桃を包丁で一刀両断してしまう老婆のスキルである。その光景を目にして、爺は決してこの老婆に逆らってはいけないことを思い知るに違いない。
感想
誰もが知っている物語。でも、誰もが「わかっている」わけではない。
文中で語られている通り、「桃太郎」には謎が多い。我々が見過ごしてきた奇々怪界な謎の数々。筆者はその謎と真正面から向き合い、真剣に考察を続ける。これが側から見ると実に可笑しいのは、なぜだろうか。
もはや名人芸のような語り口や、理系全開の視点、古来より伝わる物語を読み解く楽しさや、大真面目にどうでもいいことを語る姿勢、そしてわかりやすさ、さらに滲み出るユーモア。本来共存し得ないそんな要素たちが、ここでは調和し、見事な文章を成り立たせている。まさに筆者の真骨頂である。
特に、終盤の超展開は、読まなきゃ損だ。たった一つの桃から導き出され、明かされる真実は、今まで僕らが予想していたものとは全く違ったものだったであろう。衝撃と学びをガツンと一撃喰らった感である。
しかし、忘れてはならない。
まだ「桃太郎」の物語は序盤も序盤。ここではまだあの三匹すらも登場していない。
古来より語り継がれてきた伝説の物語に、未だ眠る八百万の謎。急速な成長、きびだんご、鬼ヶ島、まだまだ気になる秘密が盛り沢山である。そう、何が言いたいかわかるかな。
つまり、続編に期待ということだ。
富田先生にもご紹介しましたが、こういう感じが好きな方には、「空想科学読本」もオススメ。書籍と比べても遜色ないってことは、これ、売れるんじゃないかな。
まだまだ投稿お待ちしております!
本日もHOMEにお越しいただき誠にありがとうございます。
文章を書いたり読んだりするって面白いんだよね。まずは自由に。