Ride in Setouchi & San-in Day 103 (26/6/19) Miki Castle Ruins 三木合戦 [5] 本要寺
Miki Castle Ruins 三木城 新城 (6月24日に記載)
本丸御殿跡/金物資料館
本要寺
正入寺 (6月24日に記載)
昨日までで主要な史跡は訪れた。今日は残りの史跡に行ってみよう。
Miki Castle Ruins 三木城 新城 (6月24日に記載)
三木城の中でまだきここに来ていなかったが、住宅地で遺構などない。訪問レポートは一昨日の旅日記に入れている。
本丸御殿跡/金物資料館
ここには現在は金物神社があり、その中に金物資料館が建っている。ここも無料だ。親切な館員さんにつきっきりで説明していただいた。大工道具だけで博物館が成り立つことにびっくりした。勿論、収支はマイナスだろうが、市が管理している。
三木の金物 (包丁、鋸、かんな、のみなど) の歴史だが、その起源は、五世紀の中頃、当時は寺院は朱色で塗られていたが、その朱色はしゅいろがだせるつちを使用したが、この土は非常に固くそれを削り取る道具が必要という事で大和鍛冶は存在していた。その大和鍛冶と、百済の王子恵が丹生山へ亡命してきた時に連れてきた技術集団、韓鍛冶が技術を交流が始まり、韓鍛冶が三木に住み着いて、鍛冶を行ったのが始まりと言われている。
次に発展するのは、三木合戦が終わり、羽柴秀吉が三木を毛利攻めの拠点と考え、三木の復興を行おうとし、大工を三木に集めた。当然、大工道具が必要になる為、さらに鍛冶屋が増え、技術も発展していった。色々な金物の発明もあった。三木の金物職人は150名ほどいる。大衆向けから、職人向けまで幅広く生産している。職人は何軒かが昔からの伝統を守っている。門外不出の技を後継者に伝えているのだが、やはり最近は後継者不足が悩みだという。
多くの職人が三木を訪れ三木の大工道具を買っていく。道具は職人の命という。腕が追いつかなくても、持っている道具で評価される事もあるらしい。外国からも多くに人が見学に来るそうだ。
三木は金物一本でやっているのは面白い。刀剣に行かなかった。それが金物産業が長く続いている理由かもしれない。腕のいい金物職人は刀も打てるのだが、世界大戦中に軍刀作りを政府から請け負った時ぐらい。
算盤も展示していた。算盤と言えば三木のとなりの小野市が有名だが、中国韓国から伝わり作り始めたのは三木だった。しかし、金物の方が実入りが良いので、三木は金物に集中し、算盤は小野に任せたという経緯がある。
秀吉が復興策として行ったのが租税免除だった。これにより民がこの地に戻り、職人などは移り住み、暮らしは楽になった。この租税免除は江戸時代に廃止されそうになったが、三木はこれを押し通し、明治まで続いた。ちょっとユニークな町だ。
本要寺
ここは三木城が落城の後、秀吉が本陣を移した所。上で述べた租税免除に関わる資料等が保管されている。別所長治は切腹と引き換えに兵をと民の安全を要求した。この後の秀吉の対応について全く正反対の説がある。要請通り、兵と民の命は助けたという説と皆殺しにしたという説がある。三木市では前者を信じている。落城の後の秀吉の対応に感謝しており、今でも秀吉に悪い印象は無くというよりは好印象だ。近年の研究では後者ではないかと言われている。根拠は秀吉の宇喜多直家への手紙にそう書いてあるというもの。これだけで判断するのは早計と思う。その手紙の信憑性はどうか? 対外的にそう書いた方が良かったのかもしれない。もう少し論理的に考えてみると、この説に疑問が出る理由がある。
- 三木城落城時にどれだけの兵士がいたかは分からないが、5000ほどはいたのではないかと思うし、その家族たちも少なくともそれと同様の数はいただろう。そうすると秀吉はこの地で1万人程虐殺した事になる。そうであれば、なんらかの言い伝えがあるはず。その様な話はない。
- 三木市の人は伝統的に秀吉に親しみを感じている。大きな理由は戦後の復興に尽力した事。特に租税の免除は大きい。虐殺をして、民に戻ってこいと言っても戻らないだろう。
- 秀吉は三木を毛利攻略の拠点にしようと考えていた。その様な大切な場所で大虐殺はしないだろう。その様なところは危なくて拠点にはなり得ない。拠点にするのであれば融和策を取る。それが復興事業だったはず。
以上からどうしても虐殺説は信じられない。
正入寺 (6月24日に記載)
正午過ぎると大雨になった。まだ行こうと思っていたところはあるのだが、この雨では辛い。ということで今日はこれで切り上げる。