小説。——地上で初めて愛を無言のうちに見い出したある獣が永遠に焼き盡くされた跡形もない涙を流す/神皇正統記異本。散文。及び立原道造の詩の引用 4
——地上で
初めて愛を
無言のうちに見い出したある獣が永遠に、焼き盡くされた
跡形もない涙を
流す
神皇正統記異本…散文。及び立原道造の詩の引用
天稚彦
…或いは亡き、大日本帝國の為のパヴァーヌ
…ナラバ、
確かに、
…何故
肌にふれられたように、あざやかに、彼はそんな気がした。ややあって、
…私ヲ知ルノカ。と、問いかけた彼に、貴方ハ眼ノ前ニ、美シク其処ニ在ラセラレ正ニ坐シ坐シテ居ラレマス。
声の音響。
何故、知ラナイデ居ラレマショウカ?微笑む女の、言葉を貪り喰らった言霊の、彼自身の身に噛み付き肉を喰い千切る、その音響が耳に、ふれていた。——重力。
質量の、質量にして質量たる質量の群れのさまざまな固有の覚醒。
骨格、筋肉、筋、血管、それら、天稚彦そのもたれる空蝉の肉体の総てが天稚彦に苦痛の連なりを与えて已まぬが儘に、彼はみづからの固有の痛みにひとり打ち震え、下照姫は樹木の翳を通り抜ける自分の背後にその天から堕ちたものが従って居ることには気付いていた。彼は美しく魂極り、魂極って魂極る。彼の
心にかかつてゐる
さびしい思ひを噛みながら
眼の前に狭丹頬[さにつら]ふ女の後姿が
とほい調べだ――
誰がそれをわすれるのだらう
曝されて在る事をは彼女は、既に
あれはもう
かゞやいた方から
良く知って居た。いずれにしても
夕ぐれが夜に變るたび
吹いて来て
彼は
雨の晝に
とほい調べだ――
女の歩の進むがままに従い、彼にはそうするより他はなく、彼の没落
誰がそれを
なくしてしまつた
即ち
わすれるのだらう
とほい調べだ——
天降りの意味とは即ち
誰が
さうして
御父大汝神並びにその裔えたるものら、自分を含めた花々の色彩と香気に塗れた豊饒なる一族を、匂い立つ陽炎の春の中天の光のふしだらなまでの降下の中に殲滅し果てることに他ならないが故に、天稚彦はその花匂う後姿の玉梓の女に従うしかない。水鳥の青葉は群れて、風に繁った葉をわななかせれば、こまやかな音響は鳴りかさなった中に翳りは揺れて、天伝う木漏れ日は水溜る湖畔の汀に触れようとする。湖畔を照らす御大御神の賜られた恩寵は、その浪立つささやかなざわめきに白濁した光沢を好き放題に
渇く
…いま
散らした。…何処ヘ
私は
滴った雫に
行クノカ。
渇く
ふれたその刹那に
天稚彦の背後に立てた声の、その
潤った
私は
本当の意味を下照姫は
雫の滴りの
渇く
知っている。…御口ニ含マレヨ。
その下でさえも
癒し難く、抗い難く
立ち止まり、不意に振り向いたその花美し花の色彩に似せた唇を、木陰の淡い日差しにかすかに翳らせたままに、狭丹頬[さにつら]ふ御女は天稚彦に捧げた。その唇に匂った蜜の香気が天稚彦を潤し、彼は自分の
純白の
咽喉が渇ききっていた事実に
花美しの花弁が潤っていなければならないその理由を
想い至った。
貴方は
御対面いただいた
知っているのか?
その
永劫の焔に焼かれる永劫の永劫なる時の無限の充満の永劫が故に
中洲の王なる
もはや時そのものを喪失しても
血速振る御方は、
尚も
高天原の噂の通りの魂極る生きた空蝉の肉の腐乱の王であらせられた。蔦捲きの青葉のさわぐ陽炎いの宮の木漏れ日の下に通されて、文字通り糜爛した大汝神の息遣う肉の撒き散らす花々のむごたらしいほどの芳香は香しく、天稚彦は噎せ返る想いであったが、…貴方ハ天津彦々火瓊々杵尊ヲ知ルカ。
あれは
大汝神は問われた。
見知らないものたちだ…
…確カニ疑イヨウモ無ク知リマスル。貴方ハ、――と。
夕ぐれごとに
…ナラバ天津彦々火瓊々杵尊ヲ知ルカ。
かゞやいた方から吹いて来て
平れ伏し、頭をつけた地の翳りをのみ眼差しの至近に見い出したままに、天稚彦の囁いた、その
あれは
…知ラヌ。
見知らないものたちだ…
言葉を糜爛の神は笑った。
おまへのうたつた
むしろ、聊かの邪気さえも無く。
とほい調べだ——
…カノ者皇孫デ在ラセラレル。貴方ハ皇孫ニシテ皇孫ナル皇孫ヲ知ルカ。
…知ラヌ。
…カノ者、地ノ平ラカデ在ル事ヲ望ンデ坐シ坐シテ坐シ坐ス。
ふしだらなままでに、
…今、天ト
言葉の群れは言霊の穢い口臭にふれて
…地トハ余リニモ豊饒デ在リ余リニモ充チ満チテ在ルデハナイカ。
と。喰い散らされるみづからの肉の音響を聴く。独り語散るよううに呟かれた、大汝神の言葉は、天稚彦にふれていた。
不意に、
…貴様、
想い出したように
…劍ハ在ルカ。
大汝神は問われた。
…御座イマセヌ。
大汝神は眼の前に羞じらって眼を伏せた異形にして異形なる異形の男を見つめながらも、その男がやがては滅びて仕舞うことなどすでに知っていた。此の花匂う無造作な迄の死穢とふしだらな迄の命に恵まれた豊饒の地の上に、造化の兆しに目醒めるその前の、未生の時の、時さえ未生の覚醒の中に、大汝神はすでに夢に見ていた。
燃え上がる獣の幻。匂い立つ花の咲き誇った花美しき花枝のひと房を咬み、失心した眼差しを曝した儘にひとり醒め切って、冴えた意志のうちに花諸共に焼き尽くされる続ける永劫の獣。大汝神はすでに、その、陽炎の暁にみづからの腐肉を咬んだ歯の毀れに造化の成った娘もろとも彼を歎いてやったが、両眼は涙の雫の一滴さえも知らないが儘に自分の口が高らかにも哄笑をわななかせたのには気付いた。
…汝、我等ヲ
あれは
心にかかつている
滅ボサントスル者デハナイノカ。何故ニ
見知らない
おまへの
劍モナク我等ヲ滅ボスノカ。
ものたちだ…
夕ぐれが夜に變るたび
漸くにして眼を上げた天稚神は、(――匂い立つ。)愈々薫り騒ぐその(このようなうららかな)腐った肉の(木陰の下に在ってさえ)あざやかな芳香に(花々はただ、)鼻を(匂う。…と。)乱されながら、…要リマセヌ。
その声にも眼差しにも聊かの嘲笑も、軽蔑も、謀みもないのを不意に大汝神は訝ったが、…歎ワシクモ御血統ノ総テノ既ニ滅ビテ仕舞ワレて在ラセラレルガ故ニ。
天稚彦は腐肉の王の邪気も無い笑い声を聴いた。
…故ニ、
夕ぐれが夜に變るたび雲は
と。
おぼえてゐた
…今ヤ浪立チサエセヌ湖水ニ浮ンデ独リ映エタ花美シノ一輪ノ其ノ色ノ冴エニ至ル迄モ、血速振ル御血統一族ハ滅ビテ居リマスガ故ニ。
おののきも
独り語散るかのように
見た
おぼえてゐた
囁く眼の前の異形の
私は、あなたの
顫へも
獣には
私に見られることを望んでいたその姿が、そのとき
そゝがれて来る
聊かの
湖畔の水に翳を
とほい調べだ
殺気も無い。…然ラバ、と。
音も
おまへのことでいつぱいだつた
腐乱為された
気配さえも無く
夕ぐれごとに
花匂う御神は
堕として居たのを
かゞやいた方から
云われた。オ前ハ我等ヲ弔イニ来ラレタノカ、その
…今、充チテ満チタ豊饒ノ地ニ充チテ満チタ儘ニ在ル其ノ直中ニ、屠リ滅ス可キ劍ノ何物サエモ無ク刹那ノ少シノ争イサエモ知ラヌガ儘ニ。
言葉を吐いた瞬間に、確かに、
苛む
知っているか。沈黙さえもが
と。
言霊らの神附く牙の
貴方に於いては
紛う事無く
神附いて神附く儘に
饒舌を顕す
眼の前に在らせられる血速振る紛う事無き腐肉の王が御心に想われるのは、紛レモ無ク此ノ異形ノ獣ノ曝ス眼差シノ優美ハ、紛レモ無ク滅ビル者等ノ滅ビルガ前ニ、自ラ滅ビル一輪ノ花ヲ咥エテ不埒ニシテ穢クモ不当ニシテ赦サレ難キ永遠ニ殉ジテ滅ビ続ケンガ為メニ茲ニ来タノデ在レバ、滅ビヨウトスル没落ノ血統ハ即チ、彼ヲ弔ウテ遣ラネバ為ラヌ。…と。
それは謂わば、不意に、哀れなるものを素直にただ哀れんだに過ぎない赤裸々な悲しみに他ならず、…今。
と。
わたしは
大汝神は天稚彦に御言葉を賜われた。…貴様ハ
いま
俺ヲ滅ボシタ。
雅びというものの
今、正ニ。
意味を知る
雫。
天稚彦は、眼の前に流されたその腐乱して垂れ下がった眼球が静かに流した涙の雫の冴えた透明をもはや、なにを想うことも出来ずに見詰めるしかなく、樹木の陰に身を隠して憧れた、その魂をだけ天稚彦の傍らに添わせていた御娘は自分が父にすでに赦されていたことに気づいた。腐乱の神は脳裏に想い出された、やがて来る、没落の日輪の閃光を想った。天孫は天伝う天を堕ち天を降り地にふれる。腐肉は既に燃え上がって居た。みづからの肉のすべてを焼き尽くしながら、みづから燃え上がった炎焔の陽炎は揺らぐ。その滅びの日に、茜差す輝きの総てにもはや放擲し放ち、血統の総ての絶叫が耳を聾すのを、血速振るかの眼差しはその、——と。なんと余りにもあざやかなる日没の色彩。