神社学的☆億千万の命に溶け込む
幸せとはなんであるか。これこそ人の数ほどその概念は様々で、これが幸せの型です!
と言える人はいないはず。
究極的には僕の幸せは僕自身にしかわからず、国に働き方を決められることでも、日本にオリンピックがやってくることでももちろんない。僕にとっては、今、この瞬間に生きていること自体を幸せなことだと感じていて、これ以上のテクノロジーの進化もライフスタイルの変化もあまり必要とはしていないのです。と、こう言ってしまうと身も蓋もないので、それを日々の行動の中に見出してみると、やっぱり大好きな神様と心通わせている瞬間が何よりも至福の瞬間なのだ。
神社とは神おわす空間の事であり、建物のことではない。
古来、日本人の随神の道においては、具体的な拝む対象物を必要としてこなかった。建物を準備して拝む対象物としての神社建築は恐らく5世紀・仏教伝来の影響が大きく、荘厳な建物や偶像を配する方が、拝む対象が具現化され、ある意味、解り易くもてはやされてきた側面があるのではないか。神道という宗教が出来上がった近代の信仰の歴史においては、それまでの随神の道は一神教的な要素を強め、神々の世界が人間社会の権威主義に利用されてきたのではないかとすら思う。
僕は、生きとし生けるものすべてに神宿る八百万の神々を大自然そのものの中に感じる。自分の命もまた自然の一部、分身であるからこそ、今この瞬間生きていること自体が奇跡であり、日本の神々と共に命を育んでいると考えている。
命のたくさんあつまるところはどんなところだろう。僕の命も、あなたの命も、偉い政治家さんの命も、目の前を散歩している犬の命も、総理大臣の命も、(怒られるかもですが)天皇陛下の命も、虫の命もすべてが奇跡、すべてが自然そのもの。
その命が溢れるほどに存在する場所こそ、神々の世界。地球こそ地宮。億千万の命に溶け込むことは、その場所がどこであろうと神々へのご挨拶に他ならない。