「日曜小説」 マンホールの中で 第一章 6
「日曜小説」 マンホールの中で
第一章 6
そのころ、地上ではかなり大変なことになっていた。
この日の夕方、片側二車線の街の中心的な交差点であった。ちょうど吉崎善之助がいつも午後のひと時を過ごした喫茶店から戻る道すがらである。その交差点で近くで建築中のビルの工事に関連して、下水管の工事と、それに合わせたアスファルトの張替え工事が行われる予定であった。この時、ほかの場所でも道路工事をしていたからか、夕方からの渋滞はかなり激しく、また夏の暑い日であったことから、多くの人がイライラしていたようである。
先についたワゴン車は工事業者の中でも作業員や道路警備誘導員が乗ってきた車であった。事前の作業員と親方が力を合わせ、道路通行標識などを立て、そしてマンホールのふたを開けていた。そこに後発のトラックが走りこんできたのである。トラックは三台。しかし、この人手不足の折、トラックの運転も作業員も、多くは工事会社の正社員ではなく、募集に応じてきた人々であった。そして運悪くトラックの運転手が運転中に心臓発作を起こし、そのまま一台目のワゴンに突っ込んだのである。
トラックの荷台に積んであった、ガスボンベがその場に転がり、そして、アスファルトを切るはずだった円盤型の刃が、そのガスボンベに当たった。
あとは悲劇であった。ガスボンベ数本が折り重なったうちの一本が爆発を起こし、そして、それがトラックとワゴン車を業火の中に飲み込んだ。親方や若者の作業員は、バス爆発の爆風を受けて十数メートル飛ばされ、爆発によって飛ばされてきた様々なものが体に刺さっていた。そのほか、ワゴン車に一緒に乗ってきた警備員や作業員もみな大けがをするという状態である。
その爆風に飛ばされ、吉崎善之助は、ちょうどうまくマンホールの中に落ちてしまったのである。
「誰か救急車を」
まるで爆撃された後のような惨状の道路に、何人かの人が救急や警察に電話をしていた。しかし、運が悪い時というのは、悪いことが重なるものである。片側二車線の地方都市とはいえある程度の町の中心部は、交通量が多かった。反対車線にちょうど渋滞で動けなくなっていたタンク車にも、爆発の破片は刺さり、その中の荷物がタンクから漏れ出していたのだ。
「放水開始、まずは周辺の延焼を食い止めよ」
渋滞と野次馬をかき分けるようにして、一番初めに現場に入った消防のポンプ車が、近くの消火栓とホースをつないで放水を始めた。その時である。水と漏れ出した化学薬品が反応して、タンク車ごと大爆発を起こしてしまったのである。
「あの音は何だ」
善之助は、ちょうどプロフェッショナルの泥棒談義を聞き終わったところで、自分の頭上で大爆発が起きた音を聞いた。爆発音などというものは、一般の人は、テレビや映画の中でしか気ことはない。目の見えない善之助にとって、映画やテレビを見ることは非常に少ないのであるから、当然に、爆発音などを聞くことはほとんどない状態である。そこに、今までテレビなどでも聞いたことのない音量の爆発音が聞こえたのである。「何だ」と口走ってしまうのは、自然のことである。
「何かが爆発したな」
逆に、金庫や壁を爆破したことがあると思われる次郎吉にとっては、爆発音というのはそんなに不思議なものではなかった。善之助と次郎吉の間に大きな差ができたところである。
「爆発。大きな事故か」
「ああ、俺も表にはしばらく出ていないからわかったものではないが、爺さんが上から降ってきたときも何か大きな爆発の音が聞こえたぞ。よほど酷いことになっているようだな」
「しかし、個々の上は道路であろう。ということは爆発するとすればガソリン。当然に個々のマンホールにも落ちてくるのではないか」
善之助は、次郎吉の爆発という言葉に反応し「何が爆発しているのか」ということが不思議になったのだ。ガソリンならば、そして自分が落ちるくらいの穴、マンホールの蓋が開いているような状態であれば、ガソリンや爆発に伴っても得ているものが落ちてきてもよいのではないか。しかし、目の見えない善之助から見て、何も落ちてきた雰囲気はない。善之助であっても、明るさが変われば、当然に気が付くのであるが、音だけで周辺の環境は全く変わらないのである。
「ガスだろ」
「ガス……か」
次郎吉は、ごく当たり前のことのように答えた。
「ガスなら、何も垂れてこないし、空気よりも軽ければ、下に降りてくることもない。地上だけで爆発し、穴の中は音だけで何も変わりないよ」
そういいながら、次郎吉は、体を何とか動かして、少し横のほうにずれた。そして善之助の手を取り、引っ張ったのである。
「何をする」
「爆発したということは、当然に、消火活動が始まるだろ。そうなれば上から水が降ってくるんだ」
「そうか」
「傘とか、雨除けになるものはないからな。何しろマンホールの中は普段は雨なんか降らないんだ」
「まあ、そうだろう」
「だから、水が流れ落ちてくるときは、うえで、何か大量に水が流れるときか、あるいは、今回みたいに火事が起きたときなんだよ」
この辺の次郎吉のいうことは、知識とか頭の良さというものではなく、ここに住んでいるという経験則なのであろう。
善之助も、何とか動く体の部分を動かして、何とかマンホールの真下から体を動かした。普段であれば、何でもないことなのであろうが、手足が怪我をしていると、なかなかうまくゆかない。善之助にとって視力を失ったときに、普段何気なく見えていることが、非常に重要であったということを思ったが、また改めて歩けること、手が使えることというのはかなり重要であるということを認識させられたのである。
「爺さん、この辺まで来れば、大丈夫だ」
「しかし動いてしまったら、助けが来なくなるのではないか」
善之助にとっては助けがくるという希望が、自分がこの臭いにおいの中で正常な精神を保つことのできる唯一の支えであった。しかし、場所を移動してしまっていることが、その希望を失うことならば、消火の水をかぶった方がよいのではないか。
「爺さん、大丈夫だよ。消火活動の跡というのは、必ずマンホールの中に入ってきて、変なものが流れていないか、消防の人々が見に来る。その時に見つけてもらえるってわけだ」
善之助は、息をなでおろした。
「しかし、なかなか消火が始まらないな……」
次郎吉はマンホールの方を見た。消火活動が始まっていれば、当然に水が落ちてくる。しかし、その水が落ちてこないのである。
「消防が消火活動をしていないということか」
「そうなるな」
「どういうことだ」
「うん、まあ、爺さん。一つは、水をかけるとかえって危険な薬品か何かが漏れてるということか、あるいは、さっきの大爆発で消防も一緒に吹き飛んだか。どっちかだな」
マンホールの中に取り残された二人は、まさかその両方が起きているとは全くわからない。何も見ないで、次郎吉の今までの経験と、善之助の不安感だけで物事を話しているのである。
「それにしても、次郎吉さんは様々経験しているから、音だけでよくわかるねえ:」
善之助は、先ほどまでのプロフェッショナルの話も含め、徐々に泥棒である次郎吉に尊敬の念を感じるようになっていた。
「そりゃ、爺さん。経験則で様々なことがわかっていなければ、泥棒なんてすぐにつかまってしまうからな。何しろ、お天道様の下でまっとうに働いているのとは違う。自分では魏続のつもりでも、世の中の人々は、間違いなく単なる泥棒でしかないからな。」
「ああ、まあそうだが」
「だから、危険に近づかないことと、逃げる手段を持っておくことの二つは、どんな状況でも身に着けておかなきゃなんないんだよ」
善之助にとっては妙に納得できる話であった。危険に近づかないこと、そして逃げる手段を持っておくこと。実は泥棒ではなくても、社会の中で生きてゆくためには、もっとも必要なスキルなのではないか。そのスキルを身に着けていない子供は、大人が守るとして、大人になってからもこの二つのスキルがない人は、危険なところ、もちろん物理的ではなくリスクの大きなところに行ってしまい、そして人生を棒に振ることが少なくないのである。
「ところで、次郎吉さんはそんなに危険な目に遭ったのかい」
「ああ、警察に追われたことなんか、何回もあるよ」
「それ以外は」
「それ以外って、どんな」
「そうだな、命を狙われたこととか」
「命ね。」
善之助は、次郎吉がなんとなく笑ったような気がした。
「爺さん、まだ泥棒の芸術をわかっていないみたいだから、もう少し泥棒について話そうか。」
善之助はなんとなく期待に胸が膨らんでゆく自分に気が付いた。泥棒の話を聞くのがこんなに楽しいとは思わなかったのである。