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令和元年が半分過ぎました。

2019.06.30 10:29

七夕用の短冊を染めようと、願い、夢にフォーカスしていたら「立原道造」を思い出し

先日アップしたブログ→ 夢みたものは

高校3年生の時にお世話になった先生はお元気かな?と検索していたら先生のフェイスページに

出会い、「いいね!」だけ押した。


すぐに先生からメッセンジャーから連絡が入った。

それから先生とのやり取りが続いた。

先生からの言葉は、美しい色合いがあって、私の心の機微が何よりも喜んだ。


先生も、私のことをよく覚えていらして、

あの図書室のこと、5年前、中日新聞の【リレーエッセー】に書かれたと。

泣きそうに嬉しい再会でした。




小学4年生で立原の詩に惹かれ、その世界に入って行った私。

色々と振り返ると、きっと私は、母親にとって扱いにくい子供であったろうと思った。

ある意味、むら染めのような子供。

それは、少々変わった生い立ちのせいもあるだろうと。


幼稚園児の頃から不眠症だった私は、親にも周りにも気を遣う子供だった。

甘えられない子供であり、生い立ちを知っていたせいで遠慮な子供は

ある意味、孤独だった。

孤独がゆえ、言葉遊びや、空想妄想、樹々と話したり。。。

そんな子供の叙情は、立原の言葉に吸い込まれ避難場所であったのかもしれない。



そんな風に思った翌日は、小中高の同級生Mちゃんのストールの色見立て。

色見立てそこそこに、アトリエ近くのCafeに行き、サンドイッチ、紅茶、チーズケーキ、珈琲と

盛りだくさんは、お話の方が盛りだくさん。


今の日常、

そして昔の子供時代の視点、思い出は共通する認識もあるが、

日なたに隠れた、子供自分のそれぞれの事実。


それぞれの時間の経。

その陰とでも言えるような、如何しようもない現実や事実が性質や生き方を導いたのか?

それは痛みかもしれないが、その行く道へと誘うための道しるべでもあったのかもしれない。と。


だから

今、私は色を染めることができる。

色と話すことができる。



母との確執に苦しんだ若い頃。

背負いきれない現実や陰は、むら染めのような扱いにくい子供だった私だったからかな。

もう陰にフォーカスしなくても良いな。と。

大荒れな台風な時代が、その案件を終わらせた。

その大型台風を経験して納めることで見えるようになった色もある。

そして私は、色の言葉を染める人になっている。






なんとなく

肩の荷が降りた感じがして


真夜中、家に帰りベッドの上で待っているたま子に向かって

「お姉ちゃん、幸せだよ。」って言った。


令和元年が半分終わった日。