「日曜小説」 マンホールの中で 第一章 7
「日曜小説」 マンホールの中で
第一章 7
「正直なことを言えば、命を狙われたことはある。」
次郎吉は、少し声が暗くなった。善之助は、その声のトーンの変化を敏感に感じ取った。
「人を殺したこともあるのか」
「まさか」
「隠さんでよいぞ」
「爺さん、俺が人を殺したことはない。」
「微妙な言い方だな」
「ああ」
次郎吉は、少し言葉を濁した。次郎吉の言葉は、強い否定が含まれていた。しかし、その否定には何か含みがあった。嘘はついていない。しかし、かなり微妙な状態はあったのではないか。善之助はそれが知りたかった。
「だから、俺はプロだといっているだろう」
「それでは意味が分からん。わかるように知らせてくれ」
「そうだな。俺は泥棒のプロだ。要するに他人の物を奪うことが俺の仕事だ。それもさっき言ったように、ただ自分の金のために、どこにでもあるものを盗むものではない。金を稼ぐならば、しっかりと社会のためになって、働いて稼ぐんだ。しかし、それでは隠された財宝など社会のために公開しなければならないようなものが全く見えなくなってしまう。そこでそのような社会のための物は盗む」
「ああ、それは聞いたよ」
「当然に、俺は人殺しのプロではない。つまり、俺は人を殺さないんだ」
なるほど、それは筋が通っている。善之助は妙に感心した。しかし、それでは声が暗くなった理由がよくわからない。しかし、どうやって聞いたらそのことを話してくれるのであろうか。
「なんというか、聞きづらいのだが、それでは死体を見たことはあるのか」
「ああ、ある」
「殺していないのに、死体は見たことがある……ということか」
「そうだ。いや、正確に言えば人が死ぬところを見たことがあるといった方が正しいかもしれない」
先ほどまで、かなりご機嫌な話っぷりで泥棒のことを話していた次郎吉とは思えない、乱暴な言い方であった。
善之助にとっては、その豹変ぶりには驚かされるが、目が見えないことがあって、その表情を見ることはないし、また、声だけで相手の気持ちがある程度わかるようになっていた。目が見えないということは、そのように耳の感覚が目が見えること以上に働くことがある。善之助は、その豹変した次郎吉の言葉の中に、次郎吉本人の後悔の念を読み取っていた。そして自分に対する敵意がないことも見えていたのである。
「そのことを少し後悔しているようだな」
「見えてんのか、爺さん」
「目は見えんよ。でもな。昔座頭市というドラマがあってな、その中の主人公が『目の見えない奴は、目が見えるやつよりよく目が見えるときがある』といっていたセリフがあった。まあ当時は『目明き』というのは『目明し』といって岡っ引きや同心のことであったようだが、まあ、目が見えないからといって社会のことが何もわからないのではなく、色々見えているが、目が見えていないだけんだよ。いまでも、次郎吉さんの顔は見えないが、あんたの心は見えているのかもしれないぞ」
善之助は少し得意げに言った。目が見えないということが、次郎吉の自分への攻撃意欲を失わせ、なおかつ音と声色に敏感になったことが、相手を驚かせることになっている。目が見えなくなって、これほど自分が優位に立てたことはない。
「そんなもんかもしれない」
「で、どうしたんだ」
「ああ、昔、まだ俺が泥棒のプロになり切れていない時代だ」
「プロになり切れていない」
「ああ、要するにまだ金のため、生活のために泥棒をやっていた時代だ」
「そういうことか」
「続けるぞ。その頃はまだ相棒がいてな」
「次郎吉に相棒がいたのか」
「ああ」
思い出したくないことを思い出したのか、次郎吉はそこで声を詰まらせていた。泣いているのか、かすかだが肌をこする音が聞こえる。
「昔のことだ」
次郎吉は、少しためらったようにため息をつくと、そのまま少し沈黙を挟んだ。善之助はその間、何も話すことができなかった。
「そのころ、少しまとまった金が必要で、それでも銀行とかそういうところを狙うほど腕もよくなかった。そこで、宝石店を狙ったんだ」
「どこかさみしいところにあるような宝石店か」
「おいおい、爺さん。さみしいところの一軒家のような宝石店なんて聞いたことないぞ。当然、繁華街の商店街の中の宝石店だ」
昔を思い出しながらであっても、おかしいことを言えば、少し寂しさの混ざった笑いが出る。それが人間というものだ。
「その宝石店の宝石と金庫をやったんだ。その店はどうも警備が薄く、カメラはあったものの、警備員とかもいなくてな。簡単にできると思ってたんだ」
「ほう」
「しかし、それが大きな問題だった。実は雑居ビルの一階が宝石店だったんだが、上は暴力団の事務所でな。その組長の女の店だったんだよ。」
「そりゃ大変だったな」
「ああ、盗んでる途中に音を聞きつけたやくざが入り込んできて、俺は天井裏に逃げたんだが、相棒はそのままつかまり、そして銃で」
「銃」
善之助は驚いた。銃を使ったのであれば暴力団といえども大きな事件になっているはずだ。
「そんな事件はなかったが」
「ああ、そうだろうな。ただ、銃を持った宝石店強盗が、警備員ともみあった上に打たれて死んだ、という事件ならばどうだ」
「そういえば」
「あっただろ。ちょうど台風が来ていたから、すぐに話題にならなくなったが、二十年くらい前にあっただろ。」
「ああ、あったかもしれない」
「じつは、暴力団が相棒を殺したんだ。相棒は強盗なんかではない。そして、俺が天井裏から見ている前で、あいつは撃たれたんだよ」
号泣しているわけではない。さすがに二十年も前のこととなれば、すでに心の整理はついているのであろう。それだから思い出しても取り乱したりはしない。しかし、後悔の念が次郎吉を覆いつくし、そして、あの時こうしていたら相棒は助かったはずだ、というような考えが、次郎吉の頭の中で巡っているのに違いない。
「それは、なんといってよいか。悪いことを聞いてしまったな」
「いや、いいんだよ。爺さん。たまにあいつのことを思い出さないとな。あいつが目の前で殺されて、それからプロになろうと思ったんだ。普通は、そういう場面に会ったら足を洗おうと思うらしいんだが、どうも、俺は足を洗えなくてな。」
「足を洗えないんじゃなくて、足を洗ったら相棒に申し訳がないような気がしたんじゃないのか。次郎吉さん」
「そうかもしれないな。まあ、相棒もプロになれとはさすがに言っていなかったと思うんだが、まあ、なんというか、相棒と一緒にやってきたことを極めないうちに足を洗うのは良くないような気がして。」
「そんなもんか」
「でもな、爺さん。自分の欲で仕事をしてはまた犠牲者が出る。だからプロになって、社会のためになるように泥棒してるんだ」
次郎吉は、自分でも何を言っているのか、つじつまが合わないような感じであったのかもしれない。なんとなくおかしくなって、静かに笑いがこぼれた。
「ところで爺さん。今度はあんたの話を聞かせてくれないか」
「私の話。特に変わったことはないが」
「いや、泥棒稼業をしている俺にとっては、爺さんみたいな普通の生活が最も特殊なことなんだよ」
「分かった。私の話をしよう。どうも上の様子では、助けがくるのはもう少し時間がかかりそうだからな。」
善之助はそういうと、笑顔を作った。