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『信』について

2019.07.05 00:20

オンアボキャ

ベイロシャノウ

マカボダラ

マニハンドマ

ジンバラ

ハラバリタヤ

ウン


はじめに断っておくが、私は特定の宗教を信奉しているわけでも、何かの団体に所属しているわけでもなく、ただ興味のおもむくままに雑文を書いている。

不快を感じたら、私というアイコンを削除するだけで二度と見なくてすむ。

そうしてくれたら幸いである。



昨日、面白い文章を見つめた。

光明真言などの真言は、人の潜在意識を書き換えるために、唱える者や聞く者の意識と行動が変容し物事がうまくいくために効能があるように感じられる、と書かれていた。


確かに、そういうこともあるだろう。

真言を唱えるときの音とリズム、そして声は特定の刺激、つまりは周波数を脳に与えるため、何かしらの影響を人にもたらす。

最初に書いた光明真言は特にご利益があると言われるが、それは光明真言が『信』の真言であり、人に信の力を呼び起こす真言として、永きに渡り唱まれている。


宗教やビジネス書、啓蒙書、人文科学に哲学、テクノロジーなどの書物に書かれていることは『信じることが大切である』ということであったり、『ここに書いてあることを信じると良いですよ』であったり、『信じてください』であったりする。


およそ言葉というものは『信』を補完するために使われている。


『信』とは人が生きていく上で基礎となるものであり、人の根幹をなす概念だと言って良い。

『信』は『仁』や『義』や『愛』とも違う。

その違いは明記しないが『信』という土台が揺らいでは『愛』や『義』といったものも生じないのではないかと感じている。

『信』がなくても人は絶望の末に『慈』で救われるということもあるが、今日はその話はおいておく。


我々は、言葉が通じると信じるからこそ他者と言葉を交わす。

そして、信じられないという感情を抱いた相手とは、言葉を交わすのをやめる。


日本という国や日本銀行が明日も変わらずあると信じるからこそ日本円を所有し、今の社会システムの継続を信じているからこそ、今の社会システムの中でそれを活用し、ときには反発し、生きている。


『信』を強く思うものを好きになることでより『信』を強くし、『信』の感じないものを遠ざける。

競技では『信』の強さが優劣に作用し、自分を信じるということが何より自分を強くする。


そのように『信』を強くし、広げていくことがよりよい人生を歩む根幹である。

そんなことは誰もが分かっているだろうが、それでも人は、特定の対象に『信』を深めることはあっても、なかなか『信』を広げることができない。

お金は裏切らないと、お金のみに『信』を重ねていると、人に裏切れる。

家族や親密な人のみに『信』を重ねていると、社会が敵だらけに思えてしまう。

安心して楽しく外出できないような社会や、心の窓を閉めきったような生活は、誰も望んではいない。

では、どうすれば人はよりよく生きるために『信』を広げていけるだろうか。

昔からずっとあたりまえのようになされてきたことをそのままする。

昨今、『信』が失いかけるような事件や事故が起きるのも、それがなされていないからである。


それは、人からもらった『信』を他の人に返すということである。

生きていると必ず誰かに助けられる。

生きているというそのことそのものが、自分以外の存在の助けがあって成り立っている。

だから、与えられた恩を返し尽くすということはできないが、それでも、日常で不特定多数や、特定の人の助けになること、つまりは『信』を広げることはできる。

優しい言葉を返すこと。

誰かに感謝すること。

ゴミを拾うこと。

ごくごく当たり前のことを当たり前にすることが、人がよりよく生きるということの根本だと、私は感じている。