6月25日(火)「歌舞伎座昼の部千秋楽、梶原平三誉石切と封印切を観に行く』
早朝ジムで、肩を鍛え、その足で、歌舞伎座に行き、一幕見で、梶原平三誉石切と封印切を観た。今日が千秋楽で、吉右衛門の石切梶原と、仁左衛門の封印切は、もうこの先歌舞伎座で見る事が出来ないかもしれないので、目に焼き付けて置こうと思い、見に行った。
吉右衛門は、出から、着物の袂を腕に絡め、顔に笑顔をたたえて余裕綽綽の雰囲気。幾分白く塗った顔に目張りの黒色がくっきりとして、若く華やいで、壮年の平家方の武士の重鎮と言った風情。花道を歩くだけでこんなイメージを掻き立てる役者が他に入るだろうか。
武士の鏡のような存在の梶原平三景時と、名刀を介して、源氏に心を寄せる老人と娘との心の通い合い、そして名刀の奇蹟の切れ味。この芝居を一言で言えば、こんな表現になるだろう。
今回は平家贔屓の私の眼で見た独自の石切梶原を書く。梶原平三景時は、平家にとっては裏切り者だ。平家方の武将なのに、挙兵し石橋山の合戦で敗れた源頼朝を山中で発見しながら、斬る事をせず、将来は平家方が勝利するのではなく、源氏の頼朝が覇権を握ると判断し、あえて恩を売って頼朝を逃がした張本人だ。池の禅尼が頼朝、義経の命乞いをし、清盛が許し、今度は平家方の武将が裏切って頼朝の命を助けた。平家贔屓の私には、梶原平三は獅子身中の虫だ。とは言いながら、歌舞伎の世界は、源氏贔屓で徹底していて、裏切者が正義の人になるのだから仕方がない。
平家贔屓も目で見ると、平三の出では、心の中に裏切りの炎を燃やしながら、平家の武将たちには、ニコニコ顔で接する処に、顔は笑い、心の底の裏切りを、平家方には絶対に気が付かれない用心深さを感じさせる。武士の鑑である平三は、同僚の俣野五郎が、石橋山の合戦で、敵将の首を掻き切ったのは自分の力だと自慢すると、微笑みながらも毅然として、仏の御加護によるものだと自説を強調するし、二つ胴で刀の切れ味を確かめる場面、俣野が行おうとすると、無礼であろうと、睨みつける。この辺りに、心は源氏と言う心底を、吉右衛門は、きっぱりと出している。刀に八幡と書かれている事に気がつき、老人と娘は源氏方と気が付いた時の笑顔に、味方と思う源氏方、に偶然会えたと言う喜びまで出している。老人の話しを漫然と聞くのではなく、身体を老人に向けて話を聞くなど、完全に源氏方に味方する心が溢れている。吉右衛門は、本当の心の底を、小さなアクションで、観客に見せるのが上手い。
平家贔屓の私から見ると、平家への裏切者のストーリーで、一條大蔵卿に通じる何かを感じる。江戸庶民の源氏贔屓のなせる業だと思う。大蔵卿は馬鹿を装い、平家方にも、源氏方にも味方せず、時節を待っているが、平三は平家方の武将として源氏と戦いながら、平家を裏切って頼朝を助け、その先に頼朝が実権を握った際、命の恩人として有力な源氏の武将になると言う企てを心に秘めているあたり、平家ファンからは悪質に見える。先を見通せる力は、武士として重要なファクターなのである。とは言いながら、吉右衛門の梶原平三景時は、百戦錬磨の武将の、裏も表もある表情と心持ち、そして立ち振る舞いの美しさを描き、ひたすら格好がよかった。名刀で二つ胴を切り分け、石手水を真っ二つに割る気合、吉右衛門の平三なら、本当に石手水が斬れても不思議はないと思った。
歌舞伎座昼の部に最後は、仁左衛門の封印切。仁左衛門の東京30年振りの歌舞伎座の封印切は、笑わせられて、緊張し、最後に泣かされた。
大阪の飛脚屋の養子忠兵衛は、遊女に入れあげる遊び人であり、計画性がなく、恋に一途ではあっても金銭感覚は麻痺していて、短気で、意地っ張り、今なら馬鹿さ加減に呆れるが、仁左衛門が演じると、ジャラジャラとしてはいても、愛に生き、意地を貫いて、心中する悲恋の主人公に見えるのが凄い。
藤十郎が忠兵衛を演じると、火鉢に封印された小判の包みをコツコツとあて、音が小さいと八右衛門からそしられ、たまらず大きな音を出すと封印が切れてしまうと言う演じ方だが、仁左衛門の忠兵衛は、自分の意思で、封印を破る。男の意地を前面に押し出した演技となる。最後は、梅川と心中するという悲劇なのだが、巻き込まれた悲劇ではなく、自らの意思で招いた悲劇である事が、心中の哀しさを倍増させる。
出はジャラジャラとして、いかにも大阪のぴんとこなの風情。三枚目の可笑しさが濃厚だが、美形で、姿の美しい仁左衛門は、さらさらっと演じていて、身請けの残金を用意できないのに、梅川に会いに行く無責任さと、お気楽さが、笑いを誘う。
忠兵衛は、飛脚屋として預かった為替の金300両を懐に持っている。勿論自分の金ではなく、人様の金だから、小判にかかっている封印を切れば、死罪となる。飛脚屋に養子に入った忠兵衛は、この事は先刻承知の上だ。今なら業務上横領で、死刑にはならないが、江戸時代の人達は、これは死罪に当たると皆思ったはずだ。
忠兵衛は、舞台の二階で、八右衛門の自分への悪口をさんざん聞く。八右衛門は、梅川の身請けの手付金50両を、忠兵衛に貸したのにまだ返さないとか、水吞百姓の息子だと言われて、短気な忠兵衛は切れる。二階から降りて来て、八右衛門に抗議するが、八右衛門は、謝るだけで済ませ、更に逆襲に転じて、梅川は自分が身請けすると、主人に金を渡し、梅川を身請けしようとする。更に八右衛門は、わざと火鉢に封印された小判の包みをぶつけて、封印を破る。忠兵衛は、人様から預かった金を持ってはいるが、あくまで他人様のお金だ。八右衛門は、田舎の親父が用立てた金なら、その金を見せて欲しいと迫る。忠兵衛は、封印された小判を、火鉢で小さく叩く。梅川を八右衛門と争い、八右衛門には負けたくない、男の意地が、めらめらと燃える。立ち上がり、やや体を斜めに傾けて、仁左衛門は決断する。心を死ぬと決断して、最後は、死罪になるのを分かっていながら、敢然と封を切ってしまう所が、強く印象に残った。
藤十郎や鴈治郎がこの役をやると、封印で包まれた小判を火鉢で叩くうち、間違って封印が切れて、悲劇に巻き込まれていく、と言うように演じているが、仁左衛門の忠兵衛は、自らの意思で、死刑になる道を選ぶところが違った。飛脚屋の養子で、身請けする金が出来ないのが、分かっているのに、あえて意地を通そうとする、頑固さ、短気さが、仁左衛門の忠兵衛なのだ。
梅川の立場は微妙だ。相思相愛の忠兵衛が、なかなかはっきりした態度を示さないのに、八右衛門と張り合う内に、身請けを決断して、ついに自分を身請けする金を払ってくれた。そして証文が返され、自分は自由の身になり、忠兵衛の妻のとなって、楽しい生活が送れると、喜びの頂点に達した。しかし、忠兵衛は、意地を張り、死罪を承知で、封印を切った。梅川には暗転の展開、意外な展開である。一緒に死のうと迫る忠兵衛。梅川は、拒否できない。梅川も追い込まれている。今なら冗談じゃない、死ぬなら一人で死んで、と言う所だが、時は江戸時代、梅川は、忠兵衛と心中するしか道がないのである。喜びの絶頂から奈落の底に落とされ、一転して悲劇の主人公になる梅川は、受動的な悲劇の主人公になる、大変可哀想な存在なのだ。
たまたま封印が切れたのではなく、自らの意思で、忠兵衛は自分の意地を通すため、あえて封印を切ったので、心中を迫る忠兵衛を、梅川は拒否できない。心中に追い込まれても、それを嬉しく感じる梅川、見る側の涙腺を緩くする男の意地を貫いた仁左衛門の忠兵衛である。梅川を演じた孝太郎は、情に溢れて、最後は健気だった。八右衛門は愛之助が演じたが、仁左衛門には五分で渡り合えなかった。役者の格が仁左衛門とは不釣り合いだった。秀太郎のおえんは、上手いの一言。力が完全に抜けて、とても演技しているようには見えない。円熟したこれが芸の力だ。