Ride in Setouchi & San-in Day 112 (5/7/19) Takeda Castle Ruins 竹田城跡
茶すり山古墳
Takeda Castle Ruins 竹田城跡
今日は、随分と遠回りしたが、やっと竹田城に行ける。小豆島に帰る度に、姫路港で竹田城の案内ポスターを見て、いつか行って見たいと思っていた。今回も三木市で三木合戦所縁の地を一週間かけて廻り、わざわざ明石経由で姫路まで戻ったのは、この竹田城に姫路から行こうと考えていたからだ。天候が不安定で姫路から自転車で竹田城への訪問はかなりにハードスケジュールで雨の中では辛い。色々な方法を考えたがなかなか良い案が浮かばず、姫路で天気の回復待ちをしていた。天気予報はコロコロ変わり、らちがあかない。半分、竹田城行きを諦めていたのだが、その時に思いついたのが、当初予定の逆コースで行く事。これだと途中で雨がふっても、宿の選択肢があり、あまり天候を気にせずに行ける。早くこの方法を思いつけば良かった。そうすれば姫路で待機していた数日間がもっと有効に使えただろう。と言っても、急ぐ旅でもないので、良い休養になったと思えばそれはそれで良い。
今日は降水確率は20%で曇り予報。昨日も雨が降っていなかったので、城跡への登山も問題無いだろう。竹田城までは片道35キロ、アップダウンもあるが、それほど辛い行程では無い。朝早く出発し、山間部を休息を取りながら走る。
丹波から但馬へ入る。そうそう、但馬はコウノトリで有名だった。
茶すり山古墳
福知山から竹田城に向かう途中の和田山という所に古墳跡があった。兵庫県は日本で一番古墳の多い県。至る所に古墳がある。それも山間部に多い。この時代は何故か、瀬戸内よりも内陸部の方が発展していた様だ。これも疑問を持った一つで、今後紐解いて行きたい。
昼前に竹田駅に到着。ここには観光案内所があり、竹田城紹介のビデオやパネル展示がしてあった。登城前にざっと見学し事前に知識を入れておく。
竹田城があった山が見えてきた。
竹田駅 古風な造りになっている。
観光案内所 ー 係員の方に親切にしていただいた。
Takeda Castle Ruins 竹田城跡
登山道はいくつかあるが、観光案内所の人の勧めで、駅裏の登山道 (下図の①) を登り、別の登山道 (下図の②) で降りてくることにした。後から、山頂のボランティアガイドさんから聞いたのは、上りの山道は実際に戦国時代に登城道として使われていたもので石の階段は当時の遺構だという。帰りの登山道は、竹田城がブームになった平成時代になって造ったもの。この二つの登山道では誰とも会わなかった。登山前に、登山を終えて降りてきた老人と会い少し話をした。登山者はこの人だけの様だ。その人は観光客ではなく地元の人で、富士山に登るためトレーニングしていると言う。今日は三回登ると張り切っていた。日本人なら死ぬまでに一回でもいいから富士山は登りたいと話してくれた。それもそうだな。まだ自分は登っていない。やはり登りたい。いつかやってみよう。
登山道は900m。割に短いと少しなめていた。案内では40分程で登れるとある。900mを40分とはかかりすぎ、安全サイドの数字だろうとは思っていた。登り始めて、この数字の意味がわかった。かなりきつい坂道。距離は短いが、それなりに時間のかかる山道だった。ここを当時の人は毎日登ったのかと思うと、いかに現代人がひ弱なのかを思い知らされる。確かに、この竹田城の山頂付近までは車道があり、観光客はバスや自家用車で訪れる。町も城までの巡行バスを出している。だから滅多に登山道で徒歩で登る人はいないそうだ。個人的には自動車は使いたく無い。当時の人と同じように登りたい。それでこそ何か気づきがある筈だ。
城跡の入り口の料金所に到着。大粒の汗が噴き出している。料金所には大型扇風機でミストが出ている。ここで料金所の係員さんと世間話をしながら休憩。いよいよ城を巡るのだが、この城跡の見学はルートが柵で決められて自由には歩けない。多くの観光客が来るので一方通行にしたそうだが、今はブームも去ってしまい、以前のような大勢の観光客は来ていない。城跡にいるボラティアガイドさんと話したが、2000年の数年は話題にもならず年間3万人ほどしか来ていなかったが、テレビなどで話題になり、急激に観光客が増え、2012年には20万人を超え、2013年には60万に急増、この時がピーク。それまでは観光地としては整備がされていなかったが駐車場、飲食店、ホテルなどが作られた。このような観光客急増で維持費捻出にため有料になり、見学コースも規制がされたという。ピーク以降は観光客は減って行く一方で、昨年は観光客が22万人、今年は20万人を切り15万人ぐらいになる予測もある。観光ブームの時には近畿ツーリストがかなり力を入れて、ツアーや地域の観光産業の創出をしますと成功事例をホームページで紹介しているが、その後はそこで書かれている事とはかなりかけ離れた状況だ。 竹田城がある朝来市(あさご)も人口減少、少子高齢化が進んでいる。いくつかの地域再生計画が実行されているが、どれも竹田城、生野銀山、古墳などの観光資源を基盤にしたものだ。観光客の増加で、地域に観光関連業種で仕事が創出できるという予測で、移住者を増やしたいという目論見であった。その前提条件である観光客の減少がこの計画に大きな負の影響を与えている。どこの地域行政も同じだが、観光を基盤にした地域活性化計画には無理がある。余りにも楽観的過ぎる。藁をもすがる思いの計画が多い。これぐらいしか考え付かないのだろう。この竹田城にしても、観光客が増えた割には街で観光客が消費する金は比例しない状況だ。竹田城を見て観光客はどこに泊まる? 有馬温泉に行ってしまう。地域にできた1〜2万円の宿泊費のホテルには誰も泊まらない。「観光」と「観光産業による地域活性化計画」が全く噛み合っていない。以上はガイドさんと話をして感じたことだ。
朝来市の人口推移
以上の課題はあるが、竹田城は訪れる価値のある城から見える景色は素晴らしい。
竹田城は嘉吉3年 (1443年) に但馬守護山名宗全が築城され、太田垣光景が初代城主と伝承されている。戦国時代にはこの城は色々な変遷を経て毛利氏の勢力下に置かれていた。竹田城は生野銀山を管轄していた事で秀吉の中国征伐の重要な攻略対象となった。秀吉の弟の秀長が天正5年 (1577年) 11
月、兵3000でこの城を攻め落とし、この城に城代として入ったが、天正7年 (1579年) 5月、秀長は明智光秀支援のため竹田城から丹波へ攻め入り、そのまま播磨に引き上げたる。この機会に毛利方の太田垣輝延が竹田城に入城。翌天正8年 (1580年) 4月、再び秀長が6400の兵を引き連れ但馬攻めを開始、竹田城、有子山城は降伏し、山名氏と太田垣氏による但馬支配は終焉。江戸時代に入り一国一城令にて廃城。廃城の時はまずは石垣を破却している例がほとんどだが、この城はそれがされていない。これは謎の一つだそうだ。有事の際に毛利氏への備えの為に使おうとして破却はしなかったと推測されている。
見学コースが決まっているのでそれに沿って見てみる。
[大手門] 料金所から階段を上ると大手門がある
[北千畳廓] 大手門を抜けると広い北千畳廓。ここからは三の丸、二の丸、本丸も垣間見れ (右上)、さらには南千畳廓までも見渡せる (左下)。北千畳廓の正面には観音山があり、ここには出城があった。ここ以外にも竹田城を取り巻く山々にはそれぞれ出城があったと推定されている。
[三の丸] 北千畳廓から階段を上がり三の丸へ
[二の丸] 弐の門 (? ここには場所の表示が殆ど無いので案内図を見ながら見学) をくぐり、さらに進むと二の丸
[本丸] 本丸には天守台がある。
天守台は城の中で一番標高の高い場所にあり、二の丸、三の丸、南千畳廓 (左上)や花屋敷 (左下)、南二の丸、南千畳廓 (右上、右下) までも見渡せる。
[南二の丸]
[南千畳廓] 南二の丸から下ると南千畳廓
ここから本丸天守台から二の丸、三の丸、そして、北千畳廓までが見通せる。建物があった当時の眺めは壮大だったのだろう。空には山ツバメの群れが飛び交っている。
一方通行なのでこれで城から下山道に出てしまう。本当はもっと自由に見学ができれば良いのだが、決まりなので仕方がない。とは言え、今までの城とは趣が随分と異なり、十分に楽しめた。苦労してここまできた甲斐があった。満足である。下山は登りとは別のルートで降りる。
余談だが、城の入場時間が季節によって違う。これは面白い。雲海が見える秋口は朝4時に開く。真っ暗な中登山道を登ってくる人もいるそうだ。
こんな感じに見えるらしい。
もっとマニアは向かいの標高がもう少し高い朝来山の立雲峡に朝早く登り (もしくは山で泊まって) 雲海に浮かぶ竹田城を眺める。この場面が日本のマチュピチュと言われて話題になりブームを引き起こした。
無事に下山。表米神社に行き着く。ここに面白いものがあった。相撲桟敷。土俵の周りに観覧席が設けられている。土俵の前には舞台がある。多分田舎浄瑠璃の舞台だと思う。瀬戸内、播磨には各集落で同じような舞台と桟敷がある所をいくつも見た。娯楽の少ない時代。村の人たちが祭りのたびに、芝居や浄瑠璃、相撲で楽しんでいたのだ。その時の情景が浮かんでくるような気がする。
自転車を停めた観光案内所まで戻る道が風情がある。城のある山の麓には水路が流れそれに沿って人家が立っている。お寺が4つ並んで立っている。なぜ4つも集まっているのかは聞かなかったが、城下町を整備するときにお寺などを一箇所に集めることはよくあった。
街も古い建物の保存には努力しているようだ。古く見せれるように作っている。ただ、 ところどころ現代の建物が混ざっていて少し違和感はある。(萩はこの点は徹底していた、古く見えない建物は指定地区には建てられない。地名は忘れたが東北にもそのような所があった) 気に入ったのは新しい建物だが、古く見えるが、しかも、奇抜なデザインを施した家。これはいい。新しい家もこのように作れば日本らしさが出る。(写真上の二枚)
観光案内所で涼ませていただき、宿のある福知山に帰る。着くのは夕方になるだろう。楽しい1日だった。