受験生よ、遊びに行こう!
いろいろな考えや置かれている状況によっても違うとは思うので、あくまで個人的な意見として捉えていただきたいのですが、
受験とか何かを目指しているからといって、直接的に関係することだけに絞った生活をすること、好きなことを我慢する考え方に違和感を覚えます。
あともうひとつ。娯楽や文化を否定する人にも違和感を覚えます。
僕は小学生の頃、当時大ブームだったファミコンにのめり込んでいました。くる日もくる日もゲームのことばかり考えていて、学校でもその話ばかりだし、帰宅すればゲームをして過ごしていました。
そんな当時の僕を、見る人が見ればゲームオタク的な感じに見ていたかもしれません。実際それくらい好きでしたから。
しかしですね、そのゲーム経験がまさに今の自分の重要な要素になっています。
だから「ゲームの時間を勉強に費やせばどれだけ人生が変わっていたか...」といったネガティブな後悔は一切してませんし、むしろたくさんのゲームの中で得た知識や経験、イメージする力を手に入れられてよかったと思っています。
お店に置いてあるチラシなどを大量にもらってきていました。次に手に入れたいゲームの物色というものありましたが、それよりもチラシそのものを見るのが好きで、デザインやレイアウト、カラーバランスなどからカッコイイとかカワイイとかの感性に刺激を受けていたと思います。もちろんすべてのゲームのパッケージがカッコイイわけではないので、カッコワルイと感じる反面教師的経験もありました。
そしてゲームの中身です、グラフィックや音楽にも当然影響を受けました。可愛らしいデザイン、柔らかでコミカルなキャラクターとその動き。SF的な近未来感や硬質感、ホラー的な表現、シナリオやストーリー展開など。そしてもちろん、いわゆるクソゲーと呼ばれるゲームもたくさんありましたから、これも反面教師的影響がありました。
当時のゲームは今と違ってドットが荒いし動きもぎこちない。音も限られているので、そういった不足した状況の中にいたからか、自分の頭の中でイメージを補填していたように思います。例えばミサイルを打って爆発したときのゲーム内でのショボい画像処理から「きっともっとこんな感じですげー爆発してるんだろうな」とか。
ゲームで最も参考になったのは、物理的な現象。例えばめちゃくちゃ流行った「スーパーマリオブラザーズ」は、ボタンを押す強さでジャンプ力が変わります。その繊細なコントロールを駆使しないとゲームは進められません。どの程度ジャンプするとどのくらいの距離を移動できるのか、動く地面から動く地面へ移動するためのタイミング、長距離をジャンプするにはBボタンでダッシュをして勢いをつける。ジャンプ台に乗ると通常よりも高くジャンプする。ジャンプの軌道。自然落下。
これ、音楽をする上でとても重要で、テンポ感とか拍の持つ力、ビート感、フレーズ感、カデンツァなどメロディを自由に演奏する際の流れ、指揮を振ることなどはまさに物理運動で、言ってしまえば僕はここから得た知識で音楽をしているようなものです。
音楽の表現はそうした地球上の物理運動が基本になっていますが、上に投げたボールが空中で止まってしまった、といった非現実的な表現も音楽にはあり、やはりそれらも様々なゲームなどがそのまま参考になっているところが多いです。
他にもシューティングゲームなどでBボタン長押しをしてパワーゲージを溜めてから一気にミサイルを発射すると強力な攻撃ができる、というのも、音符そのものが持っている力や密度、音符同士の力の差、例えば強拍を生み出すために必要なこととか、シンコペーションを理解する上では大変に役立ちました。
僕は子どもの頃にゲームに出会ったのでこんな話をしていますが、何もゲームをしようと言っているのではなくて、様々な経験は知らないところで大変に役立っている、ということなのです。
受験があるから机に向かって勉強するだけでなく、例えば生物について学びたければ植物園とか水族館、動物園に行ったほうがいいし、化学とか物理を理解したければ科学館や遊園地に行ってみるとか、歴史を知りたければ映画を見たり資料館に行ったり、なんだったら休日に旅行に行ってみるのも良いと思います。
面接やアピールすることが苦手なら絵画や落語、演劇など、自分を出すとはどういったことなのかを学ぶべきだし、スポーツ観戦で「魅せる」こととは何かを経験したり、大きな声で応援することで元気ややる気が出たり。
もちろんこれらは「あー楽しかった」だけで終わらせるのではなく、明確な目的を持って経験をしたほうが良いとは思いますが、机に向かって勉強しているよりも理解力やその後の発展的な応用力を得られるので、大変に意義あるものだと考えます。
そしてこれらを大人、親が理解してなければなりません。受験なんだから勉強しなさいといった安直な発言や発想がまさに成長の足枷(あしかせ)になっている可能性があることを理解しなければならないと思うのです。
人間は様々な経験を元に対応力をつけていきます。それは専門的な学問の中にも活かされることが多いわけですから、娯楽や文化と言われるものの存在は、直接的ではないにせよ大変に重要な存在であることを理解して欲しい、そんな気持ちをいつも持っています。
さあ遊びにいこう!
荻原明(おぎわらあきら)