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今日のエッセイ(試み) 7/8(月)

2019.07.08 09:31

毎日小説とエッセイを書く(試みる)と軽々しく口にしながら、筆が進まずうなだれている。


書けないのは二日酔いのせいでも、汚れ物の洗濯や引っ越しの片付けに追われているからでもなく、書けない言い訳のために、忙しいふりをして過ごしている。


昨日は申し込んでいた大学のAIに関する無料講座をさぼり、毎週の習慣になっている図書館にもいかず、駅前にあるパチンコホールでスロットマシンと戦っていた。

勝つためではなく、負けるために。


先週行われた手術は無事に終わり、気持ちだからと義父から渡された1万円札が50枚入った封筒を一度は拒んだものの、捨ててもかまわないと言いながら鞄の中に捻りこまれた封筒を、ほじくり出して突き返すほどの気力は持っていなかった。


娘の手術が成功し無事に退院できたのは、自身の都合で家をで勝手に暮らす私のおかげであるはずもなく、7月3日に刻まれた私の業なんていうものも、本当はないのかもしれない。

もう二度と会うことはないだろう男の背中を見送りながら、私は大きく頭を垂らしていた。


軽蔑されこそすれ、私は誰かに感謝されるような人間ではない。

お金は捨ててしまおうかと思ったが、拾った人間に感謝されてしまうかもしれない。

無頼派を気取っているわけでも、何かを憎んでいるわけでもなく、業などないといいながら、心のどこかで、やはり(それ)が、誰かにうつることを恐れている。

この金を誰かにあげたり、寄付などもしない方がいいだろう。

遺灰を海に返すようにひっそりと、元々なかったように誰にも感謝されることなく、物を買ったり形にもせず、使いきるのがいい。

オッズのあるギャンブルなんかに使ったら、思わず大穴を当ててしまうかもしれないし、金融商品に投資したら資産を増やしてしまう。


そういうわけで、まったく当たらないスロットマシンに1万円札を次々に入れていった。

1580回転が天井である台は、1500回転まで回し他の台に移り、天井のない台は、当たらないように恐る恐る打つ。

途中で突然リールのロックがかかり、36851分の1という確率の目がでたときはさすがに打ち続けようと思ったが、やはり台を離れ、台が当たりを示す前に別の台に移った。

そうして朝の10時から夕方19時の間に30万円ほどを供養し、4日の間飲み続けたおかげで、とうとう残りは2万円となった。

そのお金も、最後に酒を胃に流し込めば消えてなくなる。

バカなことをしていると他人は思うだろう。私もそう思う。


だが、これでゆっくり書き物に集中できると思いながら、それでも筆は進んでいない。

酒の席で、同じようにものを書く人間に、文学賞にチャレンジすることを奨めながら、自身の文才の無さに呆れている。


8月末、9月末、そして12月10日に締切りの文学賞に向けて、それぞれ50枚、100枚、150枚の小説を書かなければならない。

8月にあるのは地方の新聞社が主宰するエンターテイメントの文学賞である。

1週間あれば校正前の作品が書き上げるだろう。

そのあと2週間かけて3校もすれば人にも読ませられる作品となる。

構想はもうできている。

主人公は、中年のタクシー運転手である。

ありがちだが、バカリズムの松野さんが脚本したセンタクシーやカニング竹山の演じる猫タクシーの模倣とならないように気をつけながら、運転手と客とのコミカルな描写を綴る。

タクシー業界に関する書籍や、それを生業とする者が出版した書物も、いくつか参考資料として購入し読んでいる。

ヒロインを登場させるタイミングを探しているが、伏線として物語の最初にわずかに登場し、中盤にヒロインとして描こうと考えている。

ヒロインの職業は何でもいいが、女優にするとリアリティーが薄くなるので、あまり売れていない地下アイドルにしようと考えている。

先日ニュースにあったような、タクシーの中でそのアイドルが自殺をほのめかす言動をするが、たまたまタクシーの中から運転手と打ち上げ花火を見ることになる。

地方の新聞社が主宰する文学賞であるため、その土地の描写を含める必要がある。

だから、その花火はたたら祭りの花火にしよう。

タクシーという密室の中で中年男性と若いアイドルが一緒に花火を見上げたからといって、人生の何かが変わるのだろうか。

変わるかもしれない。それともやはり何も変わらず、そのアイドルは帰宅途中にマンションから飛び降りてしまうだろうか。

結末は、書いてみなければわからない。


9月末の文学賞は、伝統ある純文学の賞である。

17歳のときに書いた青春小説『青空』を書き直して応募する予定である。


そして、12月10日。これが本命である純文学賞の太宰治賞である。

これには何を応募しようか、まだ決めかねている。

先日書き始めた『命』を題材にした私小説はすでに破棄した。

私は自分が安全な所にいて、決して死ねないことを知りながら、他者の命の観察をしている。

命について考えれば考るほど、私は命を冒涜しているのかもしれない。

ならば、他に何を書こうか。

何年も前から書いては破り、書いては捨ててを繰り返している作品がある。

一軒の深夜酒類提供飲食店の10年ほどの人間模様を描き、文学にする。

私の卒業の物語といいながら、何年も書ききれずにいるのは、書いてしまうことに対して私に恐れがあるからか、もう店には行かないと言いながら足を向けてしまうように、私自身にまだ卒業したくない気持ちが残っているからだろうか。

私の弱さが、筆を鈍らせている。

いっそのこと文学などやめてしまって、健全に生きようか。

システムエンジニアという職と、資産投資と、何よりも丈夫な身体が私をずっと生かすだろう。

だがそれで、私は生きているのだろうか。

私の身体にこびりついた文学を取るということは、私から命を剥ぎ取るようなものである。

命の重みの分からぬ私が、文学の重みを語るのもおかしな話に違いない。


書けない言い訳をするために、恥ずかしい話を綴ってきた。

恥などいくらかいても仕方ない。

やはり私は書く。

書いて書いて、そしたらようやく、何かが分かるのかもしれない。