ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 世界文化遺産 今帰仁城跡 ~「琉球王国のグスク及び関連遺産群(5)」
はじめに 記事をお届けするに当たり、この度の九州豪雨と山形沖の地震災害、並びに近年の北海道・関西地方、並びに中国四国・九州地方他、多くの大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
世界遺産「識名園」
世界遺産 今帰仁城跡「大隈城壁」
琉球舞踊(背景の映像は世界遺産 首里城 正殿)
今帰仁城跡・琉球王国のグスク及び関連遺産群
日本で11番目の世界遺産
世界遺産今帰仁城跡
2000年12月に開催された第24回世界遺産委員会で、今帰仁城跡(なきじんじょうあと)を含む『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の世界遺産リストヘの登録が決定しました。
今帰仁城跡をはじめ首里城跡(しゅりじょうあと)、中城城跡(なかぐすくじょうあと)、座喜味城跡(ざきみじょうあと)、勝連城跡(かつれんじょうあと)、識名園(しきなえん)、園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)、玉陵(たまうどぅん)、斎場御嶽(せいふぁうたき)の九つの資産で構成されています。
世界遺産リストヘの登録にあたっては、各資産が個別に評価されたのではなく、9資産全体が物語っている琉球の歴史や文化の特質が評価されました。『琉球王国のグスク及び関連遺産群』という名称で、全体がひとつの文化遺産として登録されていることがそれをよく表しています。九つの資産は琉球全体の代表なのです。
世界遺産としての評価
世界遺産登録にあたって世界遺産委員会では、登録の基準として『顕著で普遍的な価値』があるかが求められています。
これには六つの価値基準がありその中でも三つの基準にあてはまることが認められました。
1:日本や中国、東南アジア諸国との交流によって築かれた琉球独自の文化を示しています。
1:グスクは琉球社会の象徴的存在で住民の精神的拠り所でもあり、琉球文化の重要な証拠です。
1:琉球独特の信仰形態の特質を表しており、住民の生活や精神文化として生き続けています。
琉球王国の歴史
今帰仁城跡・琉球王国の誕生
グスクの造営と按司(あじ)の誕生
十世紀から十二世紀頃、琉球列島にはシマ(村)を統率するリーダーが登場します。彼らは「按司(あじ)」あるいは「太陽」や「世の主(ユヌヌシ)」と呼ばれ、やがて緩やかな地域統合がなさされる中、沖縄本島には三つの政治的領域が築かれました。山北・中山・山南として中国の史書にも登場する三山がこれです。各王は中国(明)と朝貢(ちょうこう)を行い富を得るとともにその支配権を強めていきます。やがて15世紀はじめに尚巴志(しょうはし)によって三山統一が進められ琉球王国が誕生します。
琉球王国の精華
琉球は中国(明)の解禁政策により海外貿易を制限していた中で冊封貿易を進めます。中国との交易により富を得、南はシャム、安南、マラッカなど、北は日本、朝鮮へと船を出し産物を仲介する貿易を行っていました。
主な交易品は中国陶磁、金、銀、生糸(きいと)、緞子(どんす)、麝香(じゃこう)などを中国から海外へ、逆に東南アジアからは香料、錫(すず)、象牙、酒などを満載して帰国します。
王国の繁栄は第二尚氏の誕生により隆盛(りゅうせい)を極め、王府組織の官僚制の整備と土着の宗教体制を整え、琉球独自の神女組織(しんにょそしき)ノロ制度を確立させます。
1609年薩摩の侵攻により大きなターニングポイントを迎えた琉球は日本と中国の狭間にあって新たな時代への対応を余儀なくされます。
時代に翻弄(ほんろう)されながらも17世紀後半に整備された王府身分制、羽地朝秀(はねじちょうしゅう)・蔡温(さいおん)らの改革等により国家経営を模索(もさく)、17~18世紀には現代に引き継がれる文学、芸能、美術工芸が発展し、王国文化に大輪の花を開花させることになります。
1879年明治政府は琉球藩を廃止、沖縄県を設置。ここに450年の琉球王国の歴史が閉じられます。
世界遺産
琉球王国のグスク及び関連遺産群
琉球列島は日本列島南端に位置します。14世紀中頃には三王国が分立していましたが、15世紀前半にこれらを統一して琉球王国が成立しました。
中国・朝鮮・日本・東南アジア諸国との広域の交易を経済的な基盤とし、当時の日本の文化とは異なった国際色豊かな独特の文化が形成されました。その特色を如実に反映している文化遺産が城(グスク)です。
今帰仁城・座喜味城・勝連城・中城城は、いずれも三国鼎立期から琉球王国成立期にかけて築かれた城であり、首里城は琉球王がその居所と統治機関を設置するために築いたものです。
これらの城壁は、主として珊瑚石灰岩により造営されており、曲面を多用した琉球独自の特色を備えています。さらに、王室関係の遺跡として円覚寺跡、玉陵、識名園(別邸)が残り、王国文化をうかがうことができます。
■今帰仁城跡(なきじんじょうあと)今帰仁村
今帰仁城跡 空撮
まるで大きな龍が山を下り水を飲みに向かうようにも見える今帰仁城跡の手造りの城壁
難攻不落の今帰仁城跡の城壁。凸凹の石でよく滑らかな曲線が出せるものですね!
標高100メートルの古期石灰岩丘陵に築かれた三山鼎立時の北山王統の居城です。築城は13世紀末頃に始まり、14世紀前半~15世紀初期にほぼ現在の形に整備されたとされます。グスクは6つの郭から成り、総長1500メートルにも及ぶ城壁は、地形を巧みに利用しながら野面積みで屏風状に築かれています。
サカンケーと呼ばれる遥拝所。前方がクバの御嶽。
今帰仁グスクを見下ろすように、クバの御嶽(うたき)があります。
標高約189mの山です。クバは和名はビロウ※でヤシの仲間です。
クバの木が、昔は繁茂していたことから、クバの御嶽と言うようです。
遥拝所は、山に登れない人でも皆と同様に、神々を拝することができる場所なのです。
城内には、基壇構築による建物遺構や琉球の神話と関係の深いグスクの守護神を祀った御嶽があります。難攻不落の城(グスク)でしたが、部下の謀反などもあり、1416年に首里城を拠点とする中山軍によって滅ぼされました。落城後は、王府から派遣された北山監守の居城となり、監守制度は1665年まで続きました。
今帰仁(なきじん)城跡には、お客さまを無料でご案内する「今帰仁グスクを学ぶ会」の
ガイドが常駐しています。
■座喜味城跡(ざきみじょうあと)読谷村
座喜味城跡 空撮
沖縄最古のアーチ門の一つ
城壁は、琉球石灰岩の切石で固められた飽くまでも自然素材の頑丈な野生美に対して刳り貫かれた門は何とも言えぬ優美なアーチの曲線と垂直線の切口が洗練されたアクセントとして効いていますね〜。
これは実に攻め難い城ですね。兵糧攻めしか無いような・・・
中山軍の今帰仁城攻略に参加した有力按司の護佐丸によって15世紀前期に築かれたグスクです。国王の居城である首里城と緊密な連携を図るという防衛上の必要性から、首里城より眺望可能な丘陵上に立地し、北山が滅びた後も沖縄本島西海岸一帯に残存していた旧北山勢力を監視するという役目を担っていました。
グスクは、2つの郭からなり、城壁は琉球石灰岩を用いて屏風状に築かれています。追手門と内郭の石造拱門は、現存する沖縄最古のアーチ門の一つと称されています。グスク内に建物遺構やグスクの守護神などを祀った拝所があります。
■中城城跡(なかぐすくじょうあと)中城村、北中城村
中城城跡 空撮。3回訪ねましたが、当時は、ここまで到達するのに大変な道のりで、第1回目のチャレンジは日が暮れて心細くなり途中で断念・・・
城壁は、琉球石灰岩の切石を使用
勝連城主である阿麻和利を牽制するために、王命によって座喜味城から移ってきた護佐丸が15世紀中期に整備した城(グスク)です。琉球王国の王権が安定化していく過程で重要な役割を果たした当該グスクは6つの郭からなり、県内でも城壁が良く残る城(グスク)の一つです。
城壁は、琉球石灰岩の切石を使用し、地形を巧みに利用しながら曲線状に築かれ、櫓門や石造拱門の城門があります。1853年に来琉したアメリカのペリー艦隊の探検隊がその築城技術を高く評価したことが文献や絵画に残されています。
■勝連城跡(かつれんじょうあと)うるま市
勝連城跡 空撮
美しいアプローチを描く勝連城跡の外観。スコットランドのエジンバラ城のような・・・
近くで見ると堅牢な城壁の勝連城跡。ハリーポッターの世界のようですね~
琉球王国の王権の安定過程で最後まで国王に抵抗した有力按司である阿麻和利の居城です。築城は13~14世紀に遡り、眺望のきく北から西、さらに南側は険阻な断崖を呈した地形を利用して築城されています。城主の阿麻和利は、1458年に中城城の護佐丸を滅ぼした後、王権奪取を目指して国王の居城である首里城を攻めますが、逆に滅ぼされました。 城内には建物跡、固有信仰の「火の神」を祀った聖域のほかに、最上段の郭一本丸一には玉ノミウヂ御嶽と称される円柱状に加工された霊石があり、信仰の対象となっています。
■首里城跡(しゅりじょうあと)那覇市
首里城跡 守礼門「守礼(しゅれい)」とは「礼節を守る」という意味です。
首里城御庭(うなー)
首里城正殿とお庭(うなー)
那覇港を眼下にした丘陵上に地形を巧みに利用して築城されたグスクです。三山鼎立時には中山国王の居城で、1429年に琉球王国が成立した後は、1879年まで琉球王国の居城として王国の政治・経済・文化の中心的役割を果たしました。これまでの発掘調査などの成果から、14世紀中葉から後半の築城であることが判明しています。 グスクは内郭と外郭からなり、正殿や南殿、北殿などの中心的建物群は内郭に配されています。正殿は琉球独特の宮殿建築で、戦前は国宝に指定されていましたが、第二次世界大戦で焼失し、平成4年に復元されました。正殿前の御庭は、冊封をはじめとした国の重要な儀式が行われた場所です。
■玉陵(たまうどぅん)那覇市
立派な石造りの第二尚氏王統の陵墓
1501年頃に第二尚氏王統の陵墓として造営されました。国王が祖先崇拝信仰を国内統治に利用するために、墓を造ったと推測されています。前面にレリーフが施された高欄がめぐり、墓室は三室に分かれ、中室には洗骨前の遺骸、東室には洗骨後の王と王妃を安置、西室は王族などを納骨するなど各室ごとに機能が異なっています。 墓庭は、ほぼ中央部で東西に二分され、清めのためのサンゴ片が敷かれています。16世紀初頭の琉球地方において確立された独自の石造建物の意匠を示す貴重な事例です。
■識名園(しきなえん)那覇市
主は琉球だが、中国と日本の様式も取り入れ造られた世界遺産「識名園」
王家別邸の庭園として1799年に築庭されました。王族の保養の場としてだけなく、中国皇帝の使者である冊封使を饗応する場所としても利用され、国の外交面において重要な役割を果たしました。
庭の地割には日本庭園の影響が、池の小島に架かる石橋や六角堂と称される建物の意匠には中国の影響が各々見られますが、全体的には琉球独自の構成や意匠を主体としています。 池の水源である育徳泉には、冊封正使・趙文楷の筆になる二つの石碑が建っています。
第二次世界大戦で甚大な被害を被りましたが、遺構調査に基づいた綿密な保存修理などによって平成8年度に甦りました。
■園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)那覇市
1519年に創建された石造の門です。日本、中国の両様式を取り入れた琉球独特の石造建物で、木製の門扉以外は全て木造建物を模した石造となっています。この石門も第二次世界対大戦で破壊されましたが、昭和30~32年に保存修理されました。
門背後の樹林地が御嶽と呼ばれる聖域で、国王が国内を巡幸する際の安全や、「御新下り」の儀式をするために斎場御嶽へ出かける際の祈願を行った場所でした。現在でもこの御嶽には多くの人が参拝に訪れています。
■斎場御嶽(せーふぁうたき)知念村
王国最高位の女神官である聞得大君の就任儀式「御新下り」が行われた格式の高い御嶽です。中央集権的な王権を信仰面、精神面から支える国家的な祭祀の場として重要な役割を果たしただけでなく、琉球の開閥神「アマミク」が創設した御嶽の一つといわれています。 御嶽の創設年は判然としませんが、記録などによると、15世紀前半には国王がこの御嶽に巡幸しています。
御嶽内は、様々な形状をした奇岩や樹林地となっており、神々しい雰囲気が醸し出していて、大庫理、寄満、三庫理、チョウノハナという拝所があります。これらの語源は明らかでないものの、大庫理、寄満、三庫理は同様の名称が首里城正殿内に存在することから、首里城、すなわち王権と深い関わりがあったことは明らかです。
戦前までは、男子禁制であった聖地ですが、現在では老若男女問わず、多くの人が参拝に訪れています。琉球地方に確立された独自の自然観に基づく信仰形態を表す顕著な事例です。
参考
※クバ(ビロウ)
沖縄 東南植物園又は、名古屋 東山動植物園で見ることが出来ます。
学名Livistona chinensis 「わびろう、 あじまさ、びろうじゅ」とも呼ばれる
小笠原原産のオガサワラビロウ、日本南部原産のワビロウ、中国大陸南部原産のトウビロウ、インドネシアのジャワビロウなどの総称で、北は福岡県の沖島、四国南部、九州、南西諸島に分布し、さらに台湾からアジア、オーストラリアまで分布する。
海岸近くに群落をつくる。シュロに似ているがさらに大きい。高さ10- 20m、直径30cmほどになる。ビロウは同じ科のビンロウとよく混同されることがあるが、両者はまったく別のものである。
古くは味勝(アヂマサ)と言ったが、古事記、日本書紀や《延喜式》などで「檳古」の字をあてられたために、別の樹種である檳榔(ビンロウ)と混同されて、ビンラウビラウビロウと変化した。アヂマサの語源は味勝の意味で新芽が食用にされたからというが、麻が集まっているさま、ア ヂマ(集)サ(麻)との説が有力。現在もアズムサの方言が沖縄の石垣島に残っている。沖縄では硬い葉を意味するクバの名が一般に用いられている。沖縄の 御嶽(うたき。神道における神社に相当)では、古来よりよく植えられていて、神木とされている。 葉は径1m~2m、掌状葉で深裂し、葉の先端は細長くとがりさらに二裂し、先は折れ曲がる。 葉柄は長く、2mに達しするものもあり。3-5月 葉腋(ようえき)から長さ1mくらいの円錐花序を出し、多数の淡黄緑色の小さい花をつける。特有の臭気がある。
果実は楕円形または倒卵形で、長さ1.5cmぐらい、果面は滑らかで、果色は黒、青、赤、黄色がある。 庭木または並木として利用され、材は丸太のまま床柱、ステッキに、臼(うす)や指物(さしもの)、民芸品、弓、矢に用いられる。また与那国島では実をみそにする。新芽を野菜とし食用にもされる。
葉は屋根材、みの、つるべ、柄杓(ひしゃく)など日常生活の全般にわたって広く使われてきた。現在も漂白して笠(かさ)、団扇(うちわ)や酒瓶の包装などに利用される。
女の子用のお雛さまの道具のひとつに牛車(ぎっしゃ)がある。これの実物は平安貴族の牛にひかせる乗用の屋形車で、牛車は乗る人の位階・家柄や公私用の別などによって用いる車の種類が 定まっていた。「檳榔庇車(びろうひさしのくるま)」や「檳榔毛車(びろうげのくるま)」は太上天皇・摂関・大臣などの乗用で特に格の高い車。 この車全体を葉を裂いて白くさらしたもので葺(ふ]き覆っていた。室町時代以降、牛車はしだいに用いられなくなった。?
編集後記
この度の今帰仁村シリーズは漸く、本号を以て最終回を向かえることが出来ました。
「今泊のクヌギ屋敷林及び集落景観」から始まり、本号の「世界文化遺産 今帰仁城跡・琉球王国のグスク及び関連遺産群」まで6回に渡り沖縄編をご紹介して参りました。
本号にて最終話といたしましたが、今後は主要なイベントや折に触れて様々なトピックスをその都度、ご紹介して参る所存です。
今回の沖縄編では大変お世話になった関係者の皆様には、この場を借りて多方面に亘るご協力を深く感謝申し上げます。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
一般財団法人 沖縄観光コンベンションビューロー
〒901-0152 沖縄県那覇市字小禄1831番地1 沖縄産業支援センター2F
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速報
3万年前を再現 台湾を出発した丸木舟が与那国島に到着!
3万年前に、我々日本人の祖先がどうやって海を越えて来たのかを探るための実験航海に挑んできた国立科学博物館のプロジェクトチームが、9日石斧を使い手造りの丸木舟で、45時間10分かけ、台湾から200キロ以上離れた沖縄県与那国島に無事到着して実験は成功しました。
おめでとうございます。お疲れさまでした。
※プロジェクトチームは2016年以降、草や竹で編んだ舟で実験したが失敗。
今回は杉の丸太をくりぬいた舟を使用した。
※日本列島への移住については、「朝鮮半島から対馬を経由して九州北部へ」「台湾から沖縄へ」「サハリンから北海道へ」三つのルートが考えられています。