蟹の夢
彼の実家はなかなかの山の中にあるそうだ。家の裏には小さな沢があり、子供には良い遊び場だったという。
沢にはサワガニがたくさんいた。唐揚げにすると美味しいのだが、知人は食べたことがないそうだ。何故なら、その場所でサワガニを採ったり、あるいはいたずらに捕まえておもちゃにすることを、固く禁じられていたからだった。
禁じていたのは、知人の祖父だった。
祖父はその理由をよく知人に話してくれたというが、それが不思議な話だった。
「じいちゃんは子供の頃からな、自分がカニになった夢をよく見てたんだ」
「カニ?」
「沢にたくさんいる、あのサワガニにな。じいちゃんはこの歳まで人間として生きてきたが、多分半分はあのサワガニなんだ。夢の中ではカニとして、卵から産まれ、小石の下で小魚やヤゴに怯えながら大きくなり、やがてメスとつがいになって卵を産んでもらった、そんな人生を過ごしてきたんだ。人生じゃないな、蟹生だな」
幼い頃からその話を聞かされてきた知人は、もちろん本当にその話を信じているわけではなかった。
それでも祖父が話してくれる、水中に朝日が差し込む美しさや、ヒキガエルに追い回され命からがら岩陰に潜り込んだ話などは、本当に体験したかのようにリアルに感じられたという。
ある年の冬、祖父は風邪をひいて寝込んでしまった。咳をすることも滅多にない健康体だったため珍しく思っていると、祖父は枕元に知人を呼んだ。
「夢を見たんだ。カニの姿で昼寝をしていると、突然大きな音がして、訳も分からぬうちに体が宙に浮いた。暗闇に包まれる一瞬前に、鋭い嘴が見えてな。あぁ、サギに食われるんだ、とわかったよ。そこで目が覚めた」
祖父は知人をジッと見つめて言った。
「カニのわしが死んだということは、じき、人間のわしも死ぬということだ。後のことは頼んだぞ」
何をバカなことを言ってるんだ、たかが風邪くらいで弱気になるなよ。知人は笑ってそう励ました。
しかし一週間後、祖父は風邪が肺炎へと悪化し、あっけなく息を引き取ったという。
「祖父の話の真偽のほどは、今となってはわかりません。でも僕は、あれからというもの鳥のサギを見ると無性に腹が立ってね。じいちゃんを食いやがってこの野郎、と無意識に思うんでしょうね。サギからしたら迷惑な話でしょうが」
知人は苦笑してそう言った。
「ご実家の近くには、まだサワガニがいるんですか?」
「たくさん棲んでいますよ。このどれかが祖父の子孫かと思うと、なんだか感慨深くてね。なにしろ、そのカニは僕の叔父や叔母や、従兄弟かもしれないんだから」
冗談めかした台詞に、知人も私も笑った。