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五島高資 『雷光』

2023.12.25 12:07

【紹介ブログ】

① 【十五句抄出】五島高資句集『雷光』五島高資『句集 雷光』2001年角川書店

https://kanchu-haiku.typepad.jp/blog/2015/01/%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%8F%A5%E6%8A%84%E5%87%BA%E4%BA%94%E5%B3%B6%E9%AB%98%E8%B3%87%E5%8F%A5%E9%9B%86%E9%9B%B7%E5%85%89.html   より

だいぶ前に買った本の再読である。五島高資(1968 - )の第2句集。1ページ1句組みで、全句作者による英訳付き。

著者は第1句集の『海馬』でスウェーデン賞を受賞。この『雷光』の後、『五島高資句集『蓬莱紀行』を上梓している。

建国の日や天井にうしおあり

山藤が山藤を吐きつづけおり

つちふるやリチウム電池満たされる

タンカーのにれかまれるも春の波

まだ鰭を動かしている遅日かな

暁のように紫雲丹割れる

途中には睡蓮ランゲルハンス島

口開けて叫ばずシャワー浴びており

わたくしのどの辺が海月なのかな

金星に触りし髪を洗うなり

銀河なる地球や自動販売機

右腕がしびれて覚める信長忌

底無しを隠す花野となりにけり

少しずつ手足がずれる茸狩り

屋上にバケツ置き去る冬銀河


② 金星に触りし髪を洗うなり   (季語/髪洗う)五島高資

http://sendan.kaisya.co.jp/kensaku/ikku010725.html  より

金星は宵の明星、あるいは明けの明星。たとえば宵の明星の下を歩いて戻り、金星に髪が触れた気がした。それほどに金星が近く大きかったのだ。その髪を洗っている光景がこの句であろう。

今日の句は句集『雷光』(2001年6月)から引いた。この句集は1968年生まれの著者の第二句集。「銀河なる地球や自動販売機」「台風の目に入る自動販売機」「屋上にバケツ置き去る冬銀河」などでは、自動販売機やバケツという無機的なものを積極的に詩語として活用しようとしている。そんなところに若い試みがある。

あとがきによると、著者の住んでいる栃木県は雷が多く、宇都宮市は<雷都>と呼ばれている、という。そして、次のように書いている。「太古、生物を構成する原初の有機物であるアミノ酸は雷の電気エネルギーによって生成された」。

(坪内稔典)

雷の上に庵るや宇都宮  高資

天地を人と結ぶやいなびかり  高資


③ 皿洗う水は流れていなびかり  五島高資

http://weekly-haiku.blogspot.com/2014/01/12_19.html  より

お皿を洗っている時の水の流れに着目して作品に仕立てたところが面白い。いなびかり(=稲光)は稲の実る季節に多い雷光。秋に雷光が多い年は豊作だと信じられていたそうである。飽食の時代に作者は流れていく水を眺めながら淡々と皿を洗う。その行為とは無関係に、しかし確実に視野の範囲にある雷光。現代的な素朴さに好感。



④ 方法俳句418・光の物質化11・五島高資3・2019-02-13(水)

https://blog.goo.ne.jp/virgo17_21/e/e377a8ccfacb4a20dba94bb698596960  より

○「曳航のあとに散らかる春日かな」(『雷光』2001)(→五島高資3)

○季語(春日・三春)(「角川俳句大歳時記・春」より引用)※曳航えいこう:船が、他の船をひいて航行すること。【→方法俳句-索引1・索引2・索引3・索引4 →俳人一覧(あ・い・うえ・お・かき・くけこ・さ・しすせそ・た・ちつてと・な・にぬねの・はひ・ふへほ・ま・みむめも・や~)】

【鑑賞】:春光は、まるで物質のようにまばゆく散らかっている。曳航のあとには航跡が散らばる。その航跡が春光を浴びてきらめいているのだ。

 【山藤は山藤を吐きつづけてをり   五島高資(ごとう・たかとし)

https://blogs.yahoo.co.jp/seijihaiku/2293341.html?__ysp=5bGx6Jek44Gv5bGx6Jek44KS5ZCQ44GN44Gk44Gl44GR44Gm44KS44KKIOS6lOWztumrmOizhw%3D%3D  より

季語・・・山藤(やまふじ)・春

「俳句スクエア」主宰。長崎県生まれ、栃木県在住。

血液学の医師でもある。

五島高資は現代俳句のもっとも有能な作家の一人だ。

戦後、俳句の世界では伝統派俳人と新興派俳人との間で、これからの俳句について激しいせめぎあいと論争があった。

結局、両者は相入れることが無く、決別したが、その後の世代に伝統派の確かな「描写力」と「格調」、新興派の鋭い「感性」や「言語感覚」を併せ持った作家があらわれることになる。

私はその最たる作家が彼だと思う。

彼はまだ30代後半の作家であるが、早くから頭角をあらわし、伝統派、新興派の俳人両方から支持されている逸材である。

新興派の俳人によって結成された現代俳句協会のホープであるが、流派を超えた迫力と確かな実力を持っている。

近作では、

目の覚めて白河駅は銀河なり

という壮大で不思議な秀句も発表していた。

さて、掲句であるが、この句も現代的感覚と確かな描写力に満ちた傑作であると思う。

山藤は公園や神社などの藤棚に咲く藤の花とは違い、山の雑木に混じって長く、鮮やかな花房を垂らす野趣のある花だ。

その山藤が咲き継ぐ、荒々しく美しいさまを、彼は山藤が山藤を「吐きつづけている」と描写した。

この把握は「究極の写生」だと私は思う。

「写生」とは見たものをそのまま写し取ることではないのだ。

松尾芭蕉のいう「ものの光り」、つまり「ものの本質」を描写することである。

この句は、山藤の持つ野性的な趣と美しさという、その本質を見事に表現している。

「吐きつづけをり」という字余りが、句に迫力を与えていることも見逃せない。

彼の持っている言語感覚の冴えも伺える。


風光る胸まで流すなみだかな 五島高資 「雷光」

竜天に登る月夜の蘇鉄かな 五島高資 「雷光」

力とは地から飛び立つ寒すずめ五島高資 「雷光」