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「日曜小説」 マンホールの中で 第二章 1

2019.07.13 22:00

「日曜小説」 マンホールの中で

第二章 1 

「昔は目が見えていたんだよ」

 善之助は、見えない目で、それでもうっすらと影が見える次郎吉の方を見ると、精いっぱいの笑顔を作っていった。

「なんで見えなくなったんだい」

「ああ、事故に巻き込まれてな」

「事故か」

 次郎吉は気の毒そうに言葉をつないだ。このような時に、同情されるのが最も好まないということもあるし、しかし、逆に何らかの事故に巻き込まれて、昨日まで目が見えるようになっていたのに、その日から突然目が見えなくなったことを、次郎吉自身自分のことに置き換えれば、やはり感情がなんとなく高揚するのがわかった。

「ああ、事故だな」

「どんな事故でした。あまりつらいようなら話さなくても……」

「いや、気にせんでくれていいよ。次郎吉さん。あんたもつらい過去を打ち明けてくれたんだから、こっちもしっかりと話をするよ」

 善之助は、その昔を思い出すようにいった。

次郎吉は、自分の相棒が死んだ話が、そんなに善之助の心を打ったということにいまさらながら気が付いた。次郎吉にしてみれば、自分の心の傷であることは間違いがないが、しかし、一方で、それは他人が死んだことでしかない。しかし、目の前にいる年より億力は自分自身の身体が傷ついた痛い思い出を話さなければならない。そのうえ、そののちずっと、今もその不自由な生活を強いられているのだ。それは、思いだすのも嫌なことに違いない。それなのに善之助はそれを話すというのだ。

「じゃあ、心して聞くよ」

 次郎吉は。自分の心の中の戸惑いを隠す意味も含め、少し軽い感じでそのように答えた。次郎吉は目が見えないわけではない。この暗いマンホールの中で自分たちが置かれた状況もすべてわかっている。その状態で、必死の覚悟の話を聞かされても、息が詰まるだけである。なるべく軽い話をしなければ、自分が精神的に先に崩壊してしまう。

「いや、そんなにすごい話じゃないんだ。次郎吉さんの相棒を失った話に比べれば、恥ずかしいような話さ。」

 善之助は少し間を置いた後、特に切羽詰まるような口調でもなく、そのまま、今までの声のトーンと同じままで話し始めた。

「いや、あの日は暑い日でね、ちょうど今日みたいな日だったかな。夕方、夕方家に向かって歩いていたんですよ。仕事が休みの日でね、駅前で少しパチンコか何かをして、お茶飲んで、少しビールなんかも飲んで、歩いて帰るところだった。そうしたら、自分の歩く方向とは違うんだが、右に折れて少し行ったところで人だかりができてて、よせばいいのに野次馬根性を出して身に行ってしまったんだ。そうしたらその家が火事でね。」

「火事」

「ああ、火事だった」

「それなら、少し離れた所でも火の手が見えただろう」

 次郎吉は火事という言葉に反応した。普通なら、火の手や、少なくとも煙が遠くからも見えるはずだ。つまり善之助は火事が起きているということを知って、その場に向かったはずだ。しかし、善之助の言い方では、火事だとはわからずに行ってみたら、火事であったというような言い方である。少し微妙な言い回しにこだわった感じであるし、普段の会話ならば聞き逃してスルーしているところであろう。しかし、今は時間もあるし、また、善之助の話をしっかりと聞こうとしているから、その状況を把握するために、そこであえて話を遮ったのだ。

「そうだな。次郎吉さん。火事っていうのは、初めのうちは室内で火が上がるんだ。その火が小さいうちは誰でも消せる。しかし、その火事の火を放置してしまって、大きくなり、そのまま天井にまで火が回ったら、素人では消すことができない。私が見に行ったときは、まだ火が部屋の天井に着くかどうかの時だった。だから、窓ガラスはまだしまっていたし、家も火に包まれていなかったんだ。ちょうど中の人が数人出てきて、周りの人が携帯電話で消防を呼んでいるような状態だった。『助けて』という女性の声が、私が行った時に初めに聞いた現地の音だったかもしれない。」

「初期の火事ということか」

 次郎吉は、なんとなく納得した。そういえば、自分はマンホールの中に入ってしまって、火事ということにはまったく関係がない生活をしている。実際に外の世界を歩いていても、また、盗みに入っても、基本的には火をつくことは少ないし、盗んだ後の証拠を消すために火をつけるなんて言うことはしたことがない。そのように考えれば、火事とは無縁なところにいた。イメージで火事というと家一軒が完全に燃えているような感覚しかなかったが、家事も初期とか、鎮火した時など、様々な段階があるのだ。

「その時に、若い女性が迫ってきたんだ。休みの日だったから夕方といってもまだ人が返ってくる時間でなかったのかな。働き盛りの男は私しかいなかったのかもしれない。『まだ中に子供がいるから助けてほしい』言うんだ。他に人もいないし、消防を待っていたら子供が助からないかもしれない。ちょうどビールを飲んでいたから、少し気が大きくなっていたのかもしれんな。」

 善之助は当時を思い出した。なんとなく、自分の失敗をかみしめているかのような感じだ。

「次郎吉さん。あなたは普通の泥棒さんではない。社会のためにやっている人だ。だから、言うんだが、酒の上の失敗ていうのは、一つは、酒を飲んで何か大きなことを言ってしまったり、ありえない行動をとるということがあるんだが、本当の酒の上の失敗というのは、できないことをできると思い込んでしまうことなんですよ。あの時の私も同じでね、ビールを飲んで少し気が大きくなっていたし、まだ煙もそんなに出ていなかった。そこでその辺にあるバケツの水を頭からかぶって家の中の入ったんだ。」

「燃えてる家の中に」

「ああ、さっきも言ったように、窓の上とかから少し煙が出ている以外は、炎が全く見えなかったから燃えてるとは思っていなかった。火の中に入って人を救うなんて、私にはできるはずがなかったんだ。それでも入ってしまったんだな。」

「そ、それで」

 次郎吉は、話の先が気になった。いつの間にか自分で身を乗り出して片手がマンホールの底をたたいていた。

「子供がいたのは二階だったんだ。中に入ったら、燃えているのは台所なのか、一階でね、慌てて二階に上り、奥の子供部屋のようなところに行ったよ。そしたら二歳か三歳か、そんな子供がまだ寝てたんですよ。いや、はっきり言って煙も温度もかなり上がっていたのに、かなりお行儀よく布団の上で寝ていたもので、てっきり死んだのではないかと思ったんだな。普通ならば火事で火がいつ回ってくる変わらないところで、その場で息があるかどうかなんて関係ない。すぐに抱えて連れ出して安全なところに行ってから治療をすればよいのだが、なんと炎も見えていなかったし、その場で起きているかどうかを確かめたんだ。」

「ほう、それで」

 善之助の話は、そんなにうまくなかった。それでもその話し方から、善之助の誠実さと、そしてその時の行動や情景が次郎吉の頭の中には描くことができた。

「子供が目を覚ました。まあ、生きていたんだな。何かほっとして、それでそのままかかえたんだが、一階に降りる途中で火を怖がって子供が動かなくなってしまった。声を出しても誰も中に入ってくるわけではないし。そこで、子供の手を取って、転がるように階段を下りたんだ。しかし、ビールっていうのはそこで問題が起きたんですよ。ビールを飲んでいたから、足がもつれてね」

「えっ」

「階段から落ちてしまった」

 善之助は、少し寂しそうに笑った。本当に楽しいというか、どちらかといえば恥ずかしそうな笑いであったのかもしれない。

「運が悪いというか、子供は外でお母さんの声が聞こえるから、そのまま走っていった。階段を落ちても子供は守っていたみたいなんですよ。しかしこっちは動けない。火は迫ってくる。誰か助けに来ないかなと思っていたんだが、子供が助かったことで、私のことなんか忘れてしまった感じだったんだ。悪いことは重なるもので、その時にガス爆発」

「えっ」

「ちょうど階段の下だったから助かったが、そのまま気を失ってしまってね。玄関の入口の方だったから消防が来た時にすぐに引っ張り出されたんだが、その時から目が見えないんだ。」

「その時からって」

「ああ、気が付いたら病院のベッドで、しかし目を開けてるつもりなのに何も見えない。何か爆風とともに何かが目に入ったのか、炎が入ったのか、あるいは衝撃波というやつかもしれないな。完全に目をやられてしまったんだ」

「しかし、爺さん。それは人助けの名誉の負傷じゃないか」

「いや、休みに昼からビールなんか飲んで、いい加減なつもりで人助けなんかしようとするからね。神様ってやつがいるとしたら、罰が当たったんだと思うよ。」

 善之助はもう一と笑った。今回は、完全にさみしい笑いであった。自分の人生を振り返って、ほかにも様々な失敗のようなものがあるのかもしれない。しかし、次郎吉にそのことを聞く勇気はなかった。

「爺さん、話しづらいところを話させて申し訳ない」

「いや、たまにこうやって思い出して反省しないといけないのかもしれないな。いや、思い出させてくれてありがとう。」

「しかし、人助けでねえ。俺はそんなことはしないかもしれないなあ」

「助けたことは後悔していないんだよ。次郎吉さん。やはり酒を飲んで、その辺のところを気をつけていなかったことが問題だったかな。」

 少しの沈黙ができてしまった。このような暗いマンホールの中で、沈黙することが最も危険だ。何か身に危険があるというのではなく、間違いなくどんどんと自分を悪い方向に精神的に追い込んでしまう。

「でも生きてるじゃねえか。で、それから爺さん何してるんだい」

 次郎吉は、もっとも明るい声で聞いた。