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霊性への旅

玉城康四郎氏(覚醒・至高体験)(1)

2019.07.14 02:41

  ここに仏教学者・玉城康四郎氏の若き日の至高体験を収録する。氏は学者であると同時に求道の人であり、深い宗教体験も持つ人であるが、その求道は苦難の連続であったようである。以下の至高体験は氏の『冥想と経験 』その他、いくつかの著書の中に記述が見られるが、ここでは『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版、1995)から収録する。

 氏は、こうした苦難の連続のあと、晩年に覚醒を得るが、それは項を別けて収録する。

東大のインド哲学仏教学科に入学した玉城氏は、奥野源太郎氏に師事し座禅を続ける。文中先生とは奥野氏である。

   私は、先生に就くだけではなく、専門の道場でも行じてみたいと思い、先生の許しを得て、円覚寺の接心にしばしば参じた。接心とは、一週間境内に宿泊してひたすら坐禅を行ずることである。われわれ在家も坊さんとともに坐り、坊さんとともに提唱(ていしょう:老師の講義)を聴く。その他、起居動作すべて同じ共同体である。午前二時に起床、午後十一時まで坐りとおす。その間に、提唱、食事、独参(ひとりひとり老師に参じて問答)、午後の小休止があるだけ。今にして思えば、専門道場の修行を垣間 見(かいまみ)ることができて、何よりの功徳であったが、当時は、坐れば坐るほど身も心もへとへとになり、悩 みは深くなるばかり、坐禅の外は何事も手に就かず、ただ悶々の日々を過ごすぼかりであった。。

  そうした或る目、忘れもしない、正確には昭和十六年二月七目の午後である。私は本郷座(本郷三丁目の映画館)に、フランス映画「ノートルダムのせむし」を見た。何とも奇妙な内容である。その印象が、 私の得体の知れぬ心態にぐさりと刺さり、どうにもならなくなって館を出て、東大図書館の特別閲覧室にかけこんだ。すでに夕暮れで、室の中にはわずかの学生がいるだけで静まっている。鞄(かばん)は手放していなかったとみえる。その中から『十地経(じゅうじきょう)』を取り出して、初めの歓喜地(かんぎじ)の所を見るともなしに見ていた時である。

  何の前触れもなく突然、大爆発した。木っ端微塵(こっぱみじん)、雲散霧消してしまったのである。どれだけ時間が経ったか分からない、我に帰った途端、むくむくむくと腹の底から歓喜が涌きおこってきた。それが最初の意識であった。ながいあいだ悶えに悶え、求めに求めていた目覚めが初めて実現したのである。それは無条件であり、透明であり、何の曇りもなく、目覚めであることに毛ほどの疑念もない。 私は喜びの中に、ただ茫然とするばかりであった。どのようにして、本郷のキャンパスから巣鴨の寮 まで帰ってきたか、まったく覚えがない。

  

  悩みは出発に戻って、さらに倍加し、ともかく坐禅を続け、手当たり次第に学んだ。それから一月ほど過ぎた頃であろうか、図書館の窓際の椅子にくつろいで、デカルトの『方法叙説』を読みつづけ、 コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)に到ったとき、突然爆発した。同時に、古桶の底が抜け落 ちるように、身心のあくたもくたが脱落してしまった。なんだ、デカルトもそうだったのか、そうい う思いに満たされた。

  かれは二十三歳のとき見習士官で出征し、ダニーブ河畔で越年した。そのある夜、焚火(たきび)の燃えるのを見ていたとき、驚くべき学間の根底を発見したという。それから九年のあいだそのことを暖めて、ついに『方法叙説』の執筆となったのである。これは単なる思索の書ではなく、全力を傾けて書かれている。コギト・エルゴ・スムは、「我思う」そのことが同時に「我あり」ということである。意識 と存在とが合致している。そのことに思い至ったとき、私もまた、あくたもくたが脱落してしまった のである。

  このときは、その体験は明らかにデカルトとつながっている。しかし最初の大爆発は、『十地経』 の歓喜地に関わっていたかどうか、まったく分からない。無意識のうちに依りかかる所があったのかもしれない。また、この体験は、最初に比べると、ごく小さな爆発であるが、体験そのものは同質で ある。そしてこの時もまた、数日のうちに元の木阿弥に戻ってしまった。

  そのあいだに円覚寺では、古川尭道老師から棲悟宝岳(せいごほうがく)老師に替わり、この老師の接心にもたびたび 参じた。また、奥野先生の禅会にも参加し、日光輪王寺における先生中心の坐禅の会合には、その都度先生のお伴をした。それは文部省の後援に依り、栃木県下の中学校長四、五十名が集まって、先生 の禅の指導を受けるものである。私はお手伝いのため先生に随行した。毎夏二年ほど続いたが、そのあとは先生の病気のため中止となった。

  私はこの会合の間に、これまでとは違った無上の経験を得たのである。ある朝、起き出て見ると、満目の日光の山々が透明に輝いていた。ハッと我にかえると、私の身心もまた爽やかに透きとおっていた。私は思わず合掌礼拝した。それは警えようもない爽快な喜びであった。

  もう一つは、この会における先生の『般若心経』提唱である。それは、諾老師の提唱とはまったく違っている。これまでも先生の道場で度々その講義を拝聴したが、それとも違っていた。火を吐くような先生の説法は、私の脳漿(のうしょう)を抉り抜き、絞りとおしてやまない。それはいわば、道理と会得とが私の全身心を貫いて、その張りつめた力に、私自身ははち切れそうになってしまった。何という提唱で あろう。このような経験はあとにも先にもなかった。私は、会合を終わり、東京に戻って心から先生に感謝した。

  しかしながら、その後先生の体は病魔(結核)に冒され、ついに起つことができず、昭和十七年八月三日、世を去られた。わずかに数えの四十六歳、先生の薫陶(くんとう)を受けること三年。私.は先生の亡骸(なきがら)の前に坐って沈思していた。そのあいだに、いつのまにか私自身は浄土に引きこまれ、浄らかさと安らかさのなかに、いつまでもいつまでも動かなかった。

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