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モータースLIVE

小竹正義感(ほどよし)

2019.08.02 15:00

「モータースライブ」小竹正義感(写真左)


その語源はもちろんお笑い芸人であり、このライブの主催者である「ヤマザキモータース」である。

モータースライブに出演する若手芸人は例外なくヤマザキさんのお笑いに対する熱い思いに触れ、ヤマザキさんのことを心から尊敬していると思う。

私ももちろんその一人である。


しかしである。

我々はヤマザキさんのことをどれだけ知っているだろうか。

ヤマザキさんの実績や歩んできたお笑い半生をどこまで把握しているだろうか。

ボキャブラ天国なんて見たこともないという世代の芸人、そしてモータースライブに足を運んでくださるお客様のために、私なりに調べた「ヤマザキモータース」の半生を綴ろうと思う。

(以下の文章では読みやすさを重視し、先輩芸人の敬称は省略させていただいた。)


1 生まれからコンビ結成まで

1969年2月23日、滋賀県に生まれる。

本名を山崎晋(すすむ)という。

ヤマザキの親が「進」ではなく「晋」と名付けたのは「普通ではない人になってほしい」という思いを込めてのことであったが、皮肉にも「山崎普」と間違われることが多い。

親戚のおじさんが宛名に「山崎普」と書いて荷物を送ってきたこともある。

滋賀県立八日市高校を卒業しており、高校時代は野球部に所属していた。

今でも大の野球好きであり、仲の良いTIMのレッド吉田とアメリカまで大リーグを見に行くなどもしている。

また、甲子園も好きで、特に甲子園の閉会式が好きだという。

また、子どもの頃からお笑いが好きで、高校卒業と同時に養成所に通うことも考えたが結局勇気が出ずに断念している。

その後、明治大学進学のため上京。

滋賀の田舎から出てきたため、初めて渋谷から電車に乗った時、当時の女子高生の短いスカートと初めて聞いた「超ムカツク~」にびびったという思い出がある。

23歳の時、同じバイト先だった白川安彦とお笑いコンビ「ノンキーズ」を結成。

なお結成当時は「ノンキース」であった。

1997年放送の某テレビ番組出演時、ノンキーズの応援役として出演していた笑福亭笑瓶はノンキーズのことをノンキースと呼んでいるが、結成当初からそう呼んでいるのかあまり知らずにただ間違えているだけなのかは不明である。

なお、結成当初、高速道路の下でネタの練習をしていた際、高齢の女性にウッチャンナンチャンに間違われたことがある。

「そうよね、やっぱり影で努力してるのね。頑張って」

という女性に対し、ヤマザキは誤解を解くことなく

「応援してね」

と答えた。


2 ノンキーズ時代

ノンキーズが活躍した90年代は映像媒体といえばもちろんテレビ。

それを録画するのもVHSの時代だったため現在ネット上で確認できるノンキーズのネタは数少ないが、業界内での評価は高く、

「ポストとんねるず」

とまで評されるほどであった。

当時の超人気番組であったボキャブラ天国にも数多く出演し、爆笑オンエアバトルでは4度オンエアを勝ち取っている(最高成績は489キロバトルで、その日の最高得点を叩き出し、「コントの帝王」と紹介されている)。

そのほか、現在も人気番組として続いているガキ使、タモリ倶楽部、オールナイトニッポンの出演経験もある。

それだけではない。

なんとシングルCDを4枚リリースしている。

いずれもあの秋元康プロデュースだ。

それぞれアニメや映画の主題歌になっている。

理解が追いついていない人のためにもう一度書くと、ノンキーズは秋元康プロデュースでCDを4枚リリースしていてその曲がアニメや映画の主題歌になっている。

これだけを見ても分かるとおり当時のノンキーズは結構売れている。

今、仮にモータースライブにいたとすればとっくに「卒業」が言い渡されているくらいには売れているのである。

(これを知ればヤマザキの後輩に対する指導になんとなく説得力も出てくるし、結構ちゃんとした経験に基づいて話しているんだなと思えてくる。どうだ、リスペクトが増しただろう)


3 ノンキーズ解散

それだけ活躍していたノンキーズだが、2002年に解散してしまう。

正確な解散理由は不明である。

ウィキペディアによると

「白川が劇団を立ち上げこちらの活動への専念を志望した」

とだけ記載されているが、正確な解散理由は不明である。

その後は、「ノンキー山崎」としてピンでの活動が続く。

2004年、同い年で、芸人としては後輩の末吉くんと「山崎末吉」を結成するも、翌2005年10月に突如、ADEM(急性散在性脳脊髄炎)を発症することになる。


4 ADEM発症

2005年10月26日、パチンコ店での営業をこなしていたヤマザキは自身の身体の異変を感じ始めていた。

その前の週から風邪を引いており、その日も朝から熱っぽさを感じてはいたものの午後になると下半身の痺れも感じ始めた。

翌27日、熱は下がるどころか上がる一方であった。

背中の痛みもあるが、何よりおかしな症状は尿が出ないということ。

尿意を感じてトイレに行くものの、いくら力んでも尿が一滴も出ないのである。

その日の夜、熱は38度8分を超えた。

翌28日、この日もパチンコ店の営業が入っていたが、足の痺れは酷くなり、歩くのもままならない状態となっていた。

なんとかその日の仕事をこなし、這うように帰宅するも体調は悪化する一方であり、相変わらず尿が出ないという状態は続いていた。インターネットで症状について調べるも見当がつかず、彼女に支えられながら夜間の緊急外来を受診することとなった。

この時、検査のほか、カテーテルにより尿を出すことになったのだが、そのときに排出されたのはなんと通常の10倍を超える量、2リットルもの尿が排出されずに膀胱に蓄えられていたのだ。

ヤマザキの身体に何かが起こり始めていた。

そしてその場で脊髄に注射を打ち、髄液を抽出するのであるが、その際若手の医師の技術不足により何度も注射を打ち直され、ヤマザキは度重なる激痛を感じることになる。

(後に寺門ジモンはヤマザキから病室でこの話を聞き、

「お前がそのレベルの人間だからだ。俺だったらそんな医者は出てこない」

と述べたという)

そして検査の結果、ADEM(急性散在性脳脊髄炎)であろうとの診断がなされ、ヤマザキはそのまま緊急入院することとなった。

ADEMとは「脱髄疾患」の一種であり、簡単に言うと身体の神経の中心部である脊髄がウイルスにより破壊され、そこから神経の炎症が広がる病気である。

ヤマザキを診察した医師によれば東京で年間15人〜20人ほどしか発症しない珍しい病気であり、炎症度合いによっては後遺症が残ることもあるものである。

当時のヤマザキも脳にまで炎症が広がっており、看護師に何度も意識がはっきりしているかを確認されたという。

この時、ヤマザキの下半身はほぼ自力で動かせない状態となっていた。

後日、ヤマザキの母も病院に駆けつけ、医師から症状等の説明を受けた。

深刻な状況ではあったが、母と、見舞いに訪れていた先輩芸人のデンジャラスの二人はヤマザキを見るなりクスクスと笑い出した。

ヤマザキは最初、何がおかしいんだと不機嫌になったが、三人が

「下、下」

とヤマザキが着ていたTシャツを指差すので見てみると、Tシャツには『THE END』の文字が刻まれていた。


5 4ヶ月の入院生活

そこから4ヶ月にも渡る入院生活へと突入する。

腰から下はほぼ不随状態となり、腹筋にも力が入らないため自分で身体を起こすこともままならない。

排泄も自分ではできず、尿道には常にカテーテルが通っており、看護師に浣腸をしてもらって便を出す。

「アダルティ」という成人用おむつを付けての生活となった。

また入浴も自分ではできず、看護師二人がかりで湯船に浸からせてもらい、身体も洗ってもらうという状態であった。

日に日に「情けない」という思いが強くなり、その頃、後輩の有吉が差し入れに持ってきてくれていた漫画「リアル」の登場人物と自分が重なった。

夜になると足がベッドに埋まっていくような不思議な感覚を覚えた。

それが嫌で足を動かそうとするが思い通りにならない。

もどかしさと絶望で、毎晩わめきたいような気持ちになった。

ただ、辛い入院生活の中でも芸人の仲間たちが毎日のように病院を訪れ、ヤマザキを元気付けた。

足の指が動かないことをいいことに、芸人仲間がタバコやティッシュなどを挟んで遊ぶ。あつあつおでんを食べさせる。

そんな芸人らしいお見舞いにヤマザキの心は支えられていた。

人気芸人も多く集まった。

ダチョウ倶楽部、松村邦洋、ネプチューン、デンジャラス、TIM、X-GUN、古坂大魔王、東MAX、有吉弘行、土田晃之、劇団ひとり、インスタントジョンソン。。

その中に今は亡き天才芸人、村田渚の姿もあった。

村田はお見舞いだけでなく、よく大喜利のお題をメールしてきてくれた。

仲の良い芸人に囲まれていると、ヤマザキはお笑いをやり始めたころのライブの楽屋を思い出していた。

4ヶ月間でお見舞いの人数はのべ400人を超えた。

また、こんなエピソードもある。

病院での検査が続き、どうしようもない不安をヤマザキを襲い、涙をこぼすほどに追い込まれていた時、検査室から病室へ車椅子を押してくれた若い男性医療スタッフがヤマザキに声を掛けてきた。

「僕、高校生の頃、よくノンキーズのラジオ聞いていましたよ。ネタ観に行ったこともあるんですよ。こんなとこでお会いするなんて不思議な感じですけど、がんばってくださいね」

ヤマザキは驚きながらもこの言葉に強く勇気付けられた。


5 彼女の支え

そんな長い入院生活、辛いリハビリを一番に支え続けたのはヤマザキの彼女であった。

彼女は仕事が終わると毎日病院に足を運び、献身的なサポートを行い続けた。

洗濯物を持って帰って洗い、ヤマザキが必要なものを持ってくる。

ヤマザキが便秘気味の時は便秘に効くというお茶を作り、風呂に入れない時はヤマザキの身体を拭いてくれた。

クリスマスは病院の1階にあったセブンイレブンでケーキを注文し、二人で病室でケーキを食べた。

年末になると外泊が許されるようになった。

彼女に車椅子を押してもらって彼女の家を目指す。

山手線に架かった陸橋を渡っている時、彼女が急に泣き出すということがあった。

「いつもひとりで帰っていた道を、今二人で歩くことができて嬉しい」

彼女はそう言って泣いていた。

毎日、面会終了時間までヤマザキと過ごし、寒い夜道を歩いて帰る彼女の姿が目に浮かび、ヤマザキも涙をこらえた。

退院直前、ヤマザキは病院で37歳の誕生日を迎えた。

彼女からのプレゼントは折りたたみの杖であった。

なお、退院から約1年後、ヤマザキはこの彼女と結婚することになる。

8月15日に行われた結婚式は親戚だけのこじんまりしたものになる、予定だった。

チャペルの扉が開き、バージンロードの前に立ったヤマザキは目を疑った。

デンジャラス、土田晃之、劇団ひとり、インスタントジョンソン、ブラックパイナーSOS、火災報知器、360゜モンキーズ、マシンガンズ、乾亭げそ太郎、新宿カウボーイ。

呼んだはずのない芸人たちの顔がそこにはあった。

結婚式が行われるのを知った劇団ひとりが、ヤマザキに内緒で仲のいい芸人を集めていたのだ。


6 ヤマザキモータースという人間

ADEMを発病してから10年以上が経った今でもヤマザキの足には後遺症が残っている。

リハビリにより日常生活は送れるようになったものの、以前と同じように運動することはできず、舞台上で足が震え出すこともある。

それでもヤマザキは芸人として全力でこの世界にぶつかり続けている。

すでに解散しているが、退院後新しい相方とコンビを組んでネタをやり続けた。

劇団ひとりが原作を書いた映画にも出演した。

ワタナベや太田プロで養成所の講師を行い、多くの人気芸人も世に輩出した。

そして今、数百組が出演する

「モータースライブ」

を主宰し、毎月多くの若手芸人に熱い思いを伝え続けている。

ヤマザキのこれまでを振り返ると、とにかく多くの仲間が登場する。

人に愛され、人に囲まれ、人に支えられているのが多くのエピソードから分かる。

これは裏を返せば、ヤマザキが仲間を大切にし、支えてきたことの証であるとも言える。

そんな人間だからこそ、彼の元には多くの若手芸人が集まるのだろう。

「芸人である前に人間として」

ヤマザキはこの言葉をよく口にする。

彼が多くの芸人から学んだ教訓は、豊かな土壌となり、多くの若手芸人を成長させている。

モータースライブに出演する芸人はお笑いの技術だけでなく人間として成長するよう、今日も熱い指導を受けている。

芸人として、そして人間としての成長を目の当たりにできるお笑いライブ。

それが「モータースライブ」だ。

もし、この記事でヤマザキという人間の挑戦に少しでも興味が湧いたのであれば、一度会場に足を運んでみてはいかがだろうか。


ワタナベエンターテインメント

ほどよし 小竹正義感

10年以上前のLIVE

『太陽様を囲む会』にて

上島竜兵、肥後克広、安田和博、土田晃之、有吉弘行とヤマザキモータース