Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

スターリン-赤い皇帝と廷臣たち〈下〉PART2

2019.07.15 08:16

   「スターリン―赤い皇帝と廷臣たち」 下巻紹介「PART2」では、スターリンが脳卒中で倒れ、死去するまでの廷臣達が右往左往する様子を紹介します。( 以前紹介したイアン・カーショー氏の「ヒトラー」同様、スターリンについても、旧共産諸国の崩壊後の東ヨーロッパ諸国で文献等の発見や多くの情報開示があったと思われます。そのせいか、本書でもスターリンが倒れて死去するまでの状況が克明に描かれていて興味深いものがあります。)       

   スターリンが脳卒中の発作を起こす前日、スターリンと重臣達はいつものように映画の上映会の参加し、食事をします。そして、いつものように政治談義に花を咲かせ、重臣達は( 3月1日午前四時頃 )帰路に着きます。フルシチョフによれば、スターリンは「その時はかなり酔っていたが、、すこぶる元気そうだった。」フルシチョフの腹をかなり荒っぽく叩き、ウクライナ語の歌を口ずさんでいました。重臣達を乗せた車を見送り、スターリンは小食堂のソファーに横になります。「もう寝るぞ。」とスターリンは付き添いの部下に声をかけます。「君たちも寝たまえ。しばらくは用がない。」これを聞いて警護員達は喜びます。スターリンはこれまで夜の当直を休ませたことがなかったからです。彼らは戸締りをして各自の部屋へ戻ります。

   同日 (日曜日) の正午、警備員達はボス (スターリン) の起床を待ちます。午後遅い時間になっても母屋からは何の動きもありません。次第に部下達は不安になります。午後六時ごろ、スターリンのいる小食堂の電灯が灯ります。しかし、その後1時間、3時間、4時間が経過してもスターリンは起床してきません。警備員達はスターリンに何かが起こったに違いない、と動揺します。しかし、警備員は怖くて誰も母屋の中へ入ろうはしません。(実はスターリンは、自分が関係する事件や事故の現場に部下が足を踏み入れ、自分の不名誉になるような状況を見聞されるのを極端に嫌っていました。例えば、差し迫った重大問題などで自分が苦悩する姿や弱みを部下に見られると、( 猜疑心の強いスターリンは)自分のその「弱み」を後で部下が自分の追い落としに利用するかもしれない、と恐れたのです。また、そういった現場で見聞した部下が、実際スターリンの追い落としの対象になったこともあったのです。) この頃、重臣達も自宅でスターリンからの食事の誘いの為、待機していたのですが、その連絡はやってきませんでした。

   同日の午後10時頃、中央委員会からの書類がスターリンのクンツェヴォ邸に到着します。警備員(ロズガチョフ大佐) は、書類の束を抱えて恐る恐る母屋へ入り、わざと大きい音を立てて部屋から部屋を見て回ります。誰かが侵入したとスターリンに誤解されるのを防ぐためです。大佐はカーペットの上に倒れ、失禁し身体の冷たいスターリンを見つけます。この時スターリンは意識がありましたが、身動きできない様子でした。スターリンは片方の腕を何とかあげて、「ズズズ、、」と声を出そうとします。大きな鼾をかいて眠りに入ろうとしていたスターリンを大佐と大佐が呼んだ二人の警護員が大食堂の部屋のソファーへ移します。大佐から連絡を受けた国家保安省のイグナチェフは部下に命じ、ベリヤとマレンコフに連絡します。しばらくしてベリヤからクンツェヴォ邸へ連絡が入ります。「同志スターリンの病気の件は誰にも言ってはならない。」一方、マレンコフはフルシチョフとブルガーニンに連絡を取ります。ベリヤとマレンコフは最初の連絡を受けてから4時間以上が経過した3月2日午前三時にクンツェヴォ邸に到着します。(この4時間の間に廷臣達が今後の対応を協議していたことは想像に難くありません。)

   クンツェヴォ邸に到着してた二人は鼾をかいて眠っているスターリンを見ます。ベリヤは「同志スターリンに何が起こったと言うのだ?  君らはパニックを引き起こして、、一体どういうつもりなのだ!」とスターリンに付き添っていたロズガチョフ大佐等を叱責します。警備員達は必死にスターリンの病状を説明しますが、二人はリムジンに乗ってクンツェヴォ邸を後にします。ベリヤとマレンコフがわざとらしく帰ったのは「フルシチョフとブルガーニンを交えて協議するためだった。その夜から権力をめぐる駆け引きが始まったことは間違えない。」(P494)

   スターリンは2日朝 ( 発作を起こしてから12時間が経過しても)、失禁した尿で全身を濡らしたままソファーの上で鼾をかいて眠り続けていました。しかし、どうして国家主席が病に倒れてから12時間も放置されるという異常事態が起こったのでしょうか? それは、当時の状況が発作を起こしたスターリンにとって不利に働いてしまった、という見方があります。( 重臣達が話し合いの結果、スターリンに何も手当を施さず、意図的に放置し、死に至らしめた、とする考え方もありますが)

   実は、スターリンは医者が嫌いで、当時、スターリンの主治医は彼に健康上の理由から引退勧告をほのめかした、という理由だけで拷問されている最中で、「殺人医師」をスパイとして狩り出そうとする雰囲気 がスターリンの宮廷では蔓延しており、そのため、衰弱していたスターリンがもし意識を回復したら、医者を呼んだこと自体が反逆罪とみなされる恐れがあったのです。さらに言えば、日頃からスターリンからの詳細な指示に基づいて、その通りに行動することに慣れきっていた当時の重臣達にとって、独自の判断によって行動する、という能力が欠けていたこともありました。「『四人組』(ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフ、ブルガーニン) はこの時間を利用して権力の分配について話し合った。何の手も打たないことが全員の利益につながった。スターリンに次ぐナンバー2の地位は、閣僚会議ではベリヤが、共産党ではマレンコフが占めていた。従ってスターリンの身に何かあれば、正式の幹部会会議とその後の中央委員会総会が開催されるまでの期間、法律上の最高権力はこの二人が握ることになった。もし、スターリンが死ぬようなことになれば権力を確保するための時間が必要だった。同じ理由から、フルシチョフとブルガーニンにとっても医師を呼ばない方が好都合だった。自分の安全を図るために手を打つ時間が必要だった。『四人組』はイグナチェフに対しても、身の安全を保証し、中央委員会書記への昇進を約束したものと考えられる。」(P495)

   血栓除去手術が成功する確率が極めて低く、患者の死につながる可能性の方が遥かに大きかった1950年代当時、スターリンが発作を起こしてからの対応の遅れが、スターリンの死に決定的な意味を持っていたかどうかの解明は簡単ではありません。この状況からスターリンは暗殺されたのだ、と考える人もいます。「医学的治療を故意に遅らせて殺害したという可能性はほとんどあり得ない。ただし、ベリヤがこの二つを結びつけて考えていたことは明らかである。『ついに奴を片付けてやった!』とベリヤは後にモロトフとカガーノヴィッチに自慢している。『俺が君達全員を救ったのだ!』最近の研究では、例えばワルファリンのような血液凝固阻止剤をベリヤがスターリンのワインに混入した可能性が指摘されている。血液凝固阻止剤を飲まされれば、その数日後に発作に見舞われてもおかしくはない。その場合にはフルシチョフなど全員が共犯だっただろう。だとすれば隠蔽工作はそれこそ全員の利益だった。」(P496)

   クンツェヴォ邸の警護隊員達はスターリンの容態が思わしくないこと、仮にスターリンが死去した場合には自分達が責任を取らされることを心配し、マレンコフに再度電話します。ここでベリヤとマレンコフは医師を呼ぶことを決定します。午前七時、ついに医師団が到着します。「すでに、多数の同業者 (医師) がスターリンによって拷問されていたことを知っていた医師団は、神聖侵すべからざるスターリンの威厳に圧倒され、石になったように緊張していた。今や無力な患者となった全能の支配者の診察は、極めて手際の悪いものになった。医師達は震えおののき、歯科医がスターリンの入れ歯を外そうとするが恐怖のあまり入れ歯を取り落とし、床に転がしてしまった。また医師達は手が震えてシャツをお脱がすことや、脈を取ることさえままならなかった。」(P498)

   医師団の診察の結果、スターリンは、「脳に致命的な打撃を受けていて左脳中央部の動脈に出血があり、、病状は極めて重篤」と事態が公式になったのです。この時点で、スターリンが公務に復帰する可能性はなくなりました。スターリンに回復の見込みがないことがわかると、( ベリヤ以外の ) 重臣達は「スターリンが死ぬという事実に安堵して、ため息をつきながらも、黙ってスターリンを見つめ、スターリンのために泣いた。彼らにとってスターリンは、欠点はあっても親友であり、長年の指導者であり、歴史的な巨人であり、国際的なイデオロギーの教皇だった。スターリンのために2,000万人が死に、280万人が強制移住させられ、そのうち180万人が強制収容所で奴隷労働を強いられた。これだけの暴虐を働いた独裁者に対して、重臣達は今もなお信仰を捨てていなかったのである。」(P500)

   「早く来い。スターリンが危ない。」マレンコフはフルシチョフを呼びます。「重臣達は病床に駆け寄った。脈が間遠になっていた。午後三時三五分、呼吸が二、三分ごとに五秒間ほど止まり始めた。衰弱が急速に進んだ。ところでベリヤ、マレンコフ、フルシチョフの三人には、スターリンの『書類と資料を、現在のものも過去のものも含めて整理する権限』が幹部会から委任されていた。ベリヤは、マレンコフとフルシチョフを病人の枕頭に残してクレムリンに駆け戻り、スターリンの金庫とファイルの中から密告文書その他の重要書類を探し出した。もし、スターリンが遺言を書いていれば、まずそれを見つける必要があった。レーニンは遺書を残していた。スターリンも自分の意志を記録に残すと明言していた。もし、スターリンの遺書が存在したとすれば、この時点でベリヤが破棄したはずである。スターリンのファイルには、幹部全員を告発する大量の文書と膨大な証拠が含まれていた。ベリヤが内戦時代にバクーで果した疑わしい役割に関する証拠もあったはずである。また、大テロル、レニングラード事件、医師団事件などでマレンコフとフルシチョフが果たした、血なまぐさい役割を暴露する書類もファイルされていたに違いない。その日の午後、この三人に不利な文書と証拠はベリヤの手で破棄された。この隠蔽工作のお陰でフルシチョフとマレンコフの歴史的評価は失墜を免れた。」(P506)  発作を起こしてから4日後の1953年3月5日、危篤に陥ったスターリンは死去します。( 74歳没。)

         著者/サイモン・セバーグ ・モンテフィオーリ氏は、「スターリン関連の公文書が公開され始め、新たに多くの史料が発掘されるにつれて、その人物像がこれまでにないほど鮮明に浮かび上がってきた。、、今では彼がどんなことを言ったか、どんなメモを残し、どんな手紙を書いたか、何を食べどんな歌を歌い、どんな本を読んだかも分かってきた。ボリシェビキ党指導部内の権力闘争という特殊な環境を背景として、生身のスターリン像が浮かび上がる。その実像とは、自分が果たすべき歴史的使命を、何よりも優先して考える頭脳明晰で天才的な政治家であり、歴史と文学の書物をむさぼり読む神経質な知識人であり、慢性の扁桃炎と疥癬(かいせん:ダニによる皮膚病の一種)に悩まされ、リューマチに苦しみ、その原因が腕の奇形とシベリア流刑時代の冷えにあると思い込んでいる心気症患者だった。多弁で、社交的で、歌が上手く、しかし、孤独で不幸だったスターリンは生涯を通じて、愛情や友情がからむ人間関係をすべてぶち壊し、常に政治を優先して個人の幸福を犠牲にし、狂気の殺人ゲームに熱中した。幼少期の不幸な環境の傷から立ち直れず、異常なほど冷酷な性格ではあったが、愛情深い夫と優しい父親になろうと努力したこともある。しかし、結局は周囲のすべての人間の心の井戸に、毒を投げ込むようなことをしてしまうのである。懐旧の念からか、バラとミモザを何よりも愛したこの男は、同時に人間のあらゆる問題を解決する唯一の手段は死であると信じる人物であり、憑かれたように次から次へと人々を処刑した独裁者だった。。」とスターリンを総括しています。(上巻 P29) 尚、本作品は2004年度、英国文学賞(歴史部門)を受賞しています。