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友人とは何か

2019.07.17 23:50

人はいつどのように友を作るのでしょう。



本音で話せる友人ができない。

距離を急に詰められると、逃げてしまう。

人間関係で傷ついたり、相手にこう思われてるのではと考えすぎるくらいならいっそ関係を切る。

その結果、深い関係の友と呼べるような人ができなくなった。


そんな話を聴く機会がありました。

私の周りではどうやらこのような悩みをうっすらと抱えている若者は少なくないように思います。


私も世間的には若者と呼ばれる範囲にありますが、

私にはそれほど人間関係で傷つくことの恐れのようなものは今はあまりないような気がします。

ただ、私も目上の人には気を遣いすぎて萎縮する傾向は昔からありますし、

どんな相手にも無意識下には嫌われたくない、傷つきたくない、知られたくないという防衛があるとは思います。



心理学の領域では“ふれあい恐怖心性”と言われるような、情緒的な深まりに至らない特徴は私が生まれる前からあった概念のようで、

特に昨今の若者がということでもないようです。


私にもそのような時期があったような気がしますし、

本音で話し合えるような友人は数人しか思いつきません。

ですが、確実に数人はいて、

数は少なくとも今はそれで十分だと思っています。


ふと、私はどのように友人を作ってきたのだろう、人と人はどのように友人になるのだろう、

ということに思いを巡らせ、


私がいま確信を持って友人と呼べるようなその数人とは、

どうやって関係が深まってきたのだろうと考えると、


どこかでどちらかが、距離を縮める一歩を踏み出したに違いありません。

それは覚えているものもあれば、

まったく覚えていないものもあり、

しかもその行動が意識的か無意識的かも分からないのです。


関係は急に深くなることもあれば、

徐々に徐々に、相手のことを知っていく積み重ねで気づいたら深まっているということもあるでしょう。


友人は作るものではなく、

気づいたら友人になっているということだというのが私の価値観かもしれません。

結果であって目的ではないというか。

友というのを、本音で話せて、情緒的な関わりを持てる相手、という定義をするならば。



距離を縮めるというのを私なりに言い換えると、

それは、一つはこちらから自己開示をするということと、

もう一つは、相手の隠れている部分に、あえて“土足で”踏み入れることなのかなと。


きっとそのどちらかを、

自分か相手のどちらかが、

どこかのタイミングで行った瞬間があるのでしょうが、


必ずしもそれは(長い付き合いであればあるほど)後から思い出せるものでもなく、


戦略でもスキルでもないような気がしています。


前提にはきっと相手に惹かれるところや、逆に気に入らないところがあるからこそ、

距離を詰めるという行動に至っているのかもしれません。


それはシンプルに言ってしまえば、

分からないから知りたい、という動きとでも言えるでしょうか。


では、ふれあい恐怖心性と言われるような特徴を持つ人たちが、

他者に全く関心が無かったりするのかといえばそんな風にも見えません。


どこか自分の内面に起こっている右往左往に違和感を持ち、関心を向けざるを得ないのと同じように、

他者の本来見えない内面にも敏感に関心を向けている人もいるように感じます。


自分も〈分からない〉、

他者も〈分からない〉という危険な状態から自分を守るように、考えることをやめ、殻にこもって安全を保つというような印象もあったりします。


殻にこもっている自分に気がつくと、

さみしい、という気持ちも湧いてくるかもしれません。

あるいは、友人を作りたいけど作れないことに自己嫌悪があったり。



なんのために友人が必要なのか、

友人がいないと何が困るのか、

ということについて、私はあまりその明確な意義を語れませんし、友情の素晴らしさは人に押しつけるものでもないと思います。


友人を作りたいけど作れないと言う人たちにとって、友人とは何なのでしょう。


“知り合い”ならば、私たちは作ろうと思えばいくらでも作れます。

仲良くなくたって、学校や職場で会う相手とは知り合いにならざるを得ません。

また、毎日行くコンビニの店員も、知り合いと言ってしまえば知り合いです。



知り合いを増やせばその中から友人ができる確率も上がる、というのは一つの事実かもしれませんが、知り合いが多いからといって、深い友情にまで発展する相手も増えるかと言えばそうでもないでしょう。

人脈が多い人を見ると真似できないなと感心しますが、

facebookで何千人と繋がっていたとしても、

どうやら本来、人間の脳は通常150人までしか認知的には関係を保てないようなのです。

 ダンバー数(ダンバーすう、英: Dunbar's number)とは、人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限である。ここでいう関係とは、ある個人が、各人の事を知っていて、さらに、各人がお互いにどのような関係にあるのかをも知っている、というものを指す。 
 ダンバー数は、1990年代に、イギリスの人類学者であるロビン・ダンバーによって初めて提案された。彼は、霊長類の脳の大きさと平均的な群れの大きさとの間に相関関係を見出した。ダンバーは、平均的な人間の脳の大きさを計算し、霊長類の結果から推定する事によって、人間が円滑に安定して維持できる関係は150人程度であると提案した。 
 ダンバーはこれについて、「もしあなたがバーで偶然出会って、その場で突然一緒に酒を飲むことになったとしても、気まずさを感じないような人達のことだ」というように咬み砕いて説明している。(Wikipediaより)


結局、知り合いではなくて“友人”となると人によって定義がばらばらで、

しかも明確化されていなかったり説明できるものでもなく、

自分が友人だと思っていても相手からはただの知り合いと思われている可能性だってあるので、

友人の作り方なんていうのはマニュアル化できる代物ではないんだろうなぁと。




人との出会いというのはそもそも偶然の連続であって、出会いの意味というのは後付けできます。

でも半分は、“運命”なのかな。


私は3月末生まれで、

あと数日産まれてくるのが遅かったら一つ下の学年だったので、

今の人間関係とは全く違った人生になっていたでしょう。

それでも、出会うべくして出会う人はいるのかな、とかね。



きりがないけど、

考え出すと面白い。

考え出すと面白いけど、

きりがない。



まとまらないね。

受け入れられる体験と受け入れる体験を通して、

出会えて良かったなぁと思える人間関係が、死ぬ前にいくつか思い出せたら良くない?と、思っているんですがね。