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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.CHOPIN、ワルシャワの家族へはロゼールではなくグートマンの手で

2019.07.19 10:35

ショパンは1845年の3月、「ポーランド人の私たちに春が訪れる日がくるのであろうか」と、ヴィドヴィツキに自分のポーランドにいる家族やパリのポーランド亡命者の心配をこぼしたショパンだった。

3月の復活祭のとき、音楽院の演奏会でドラクロアとショパンは会ったばかりであったが、

4月になって、そのドラクロアからショパンへ頼みごとの手紙が届いた。

「…靴職人のブラウン氏に、午前9時頃に、僕の住んでいる(54 rue Notrc-Dame-de-Lorette)へ来てもらえるように、君から頼んでもらえないか。

おそらく彼はあなたの推薦に基づいて私のための靴をデザインすると思うからです。

僕は彼に手紙を書いたが返事がないのです。

ノアンへ君が行く前に僕の頼みをお願いすることにしたのだよ。

僕たちが会えないまま人生を過ごすなんて、なんて悲しいことなんだ。

僕はあなたを心から心から愛しているのです。

君は僕たちの哀れな種族への名誉です。親愛なる友へ。ドラクロア」

ショパンは、演奏会で履くための靴や当時の最先端の流行りの革靴をたくさん持っていたのだ。ドラクロアは3月にショパンと会ったときにショパンの靴が羨ましかったのであろうか、ショパンと同じ靴職人を紹介して欲しと頼んだドラクロアであった。

ショパンは夏になるのを待たずに5月にはノアンへ行くことをドラクロアはショパンから聞いていたのであろうが、ショパンは6月中旬にノアンへ仕事の場を移した。

ショパンは、ノアンで≪マズルカ作品59≫と≪夜想曲作品 62-2≫が書きあがった。銀行家のレオを通してドイツのスターン氏がショパの曲を買いたいと申し出があった。

「ブライトコフプ・ウント・ヘンテル社と他の全ての国(フランスとイギリス以外)の版権は600フランです。ですから、スターン氏にとってこれは高い値段ではございません。」ショパンはレオに伝えた。

7月の半ばになり、ショパンは、ノアンに着いた6月半ばから悪天候に見舞われていた。そのことをワルシャワの家族に詳しく書き記して家族に知らせた。

「僕とサンド達はもう一ヶ月以上ここノアンにいます。 ポーリーヌ夫人も僕たちと一緒に3週間滞在しています。私達は全員無事です。

この冬はこの地区で熱病が流行りました。 フランソアの夫(ルドヴィカも覚えていると思うけれど)は冬の間中ずっと病気だったが今は回復しました。

天気は良くなりましたが、私たちがノアンに到着した時は途方もない嵐でした。

アンドル河(サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏)は氾濫し、シャティヨン(パリ中心から7㎞)からモンギヴレーまでが水につかりました。

サンド夫人の兄弟の田畑や家が水につかりました。

ポーリーヌを迎えにノアンへ来たポーリーヌのご主人のヴァルドさんは

シャトールー(ノアンから約35㎞)の道が浸水していたため、私たちがよく歩いた素敵は景色の場所(ルドヴィカがノアンに来てくれた時のこと)にはたどり着けず、彼の妻のポーリーヌを連れて帰れませんでした。

大きな被害を牧草地は受けましたが、浸水は長くは続かず、すでに忘れられています。

僕は田舎の生活には向いていないが、しかし僕は新鮮な空気の恩恵を受けている。

僕はピアノをほとんど演奏しません。

ピアノの調子が悪いのです。だから、少ししか曲が書けないのです。

あなたが僕からの曲を長い間受け取れないのはこれが理由です。」

ショパンはノアン周辺の水害に怖い思いをし、サンドの館は浸水は免れたものの、助けも来るわけがなく何日間は館の中で過ごしたのだ。

ピアノが壊れるほど湿気が酷いことがショパンの言葉から伺えるのだ。

続けて、ショパンは書いた。

「あなたたちは皆田舎にいると僕は思っています。

イザベラ(ショパンの妹)のご主人の病気も良くなってきていると思っています。

ルドヴィカもマルジョン博士のアドバイスに従って、疲労を避けていることと思っています。

サンドが書いた小説[悪魔の沼]の原稿は僕が持っているので、ルドヴィカに送ります。」

ルドヴィカも疲れているし、イザベラの夫は具合が悪いのである…。

「アドルフ・グートマンさんに僕はパリを発つまえに会いました。

ワルシャワのあなた達からのお礼の言葉を伝えてあります。

彼が僕の前から去ったとき僕は彼がまともな人間であることを

噛みしめた。彼は本当の仲間です。」

ショパンは弟子で友人のグートマンのことを信用していた。

ショパンが2週間のパリ不在から帰ってからサンドへ書いていた名前を伏せてあった

将来性のある弟子とはグートマンのことであったのだ。

つまり、グートマンに会ったことはサンドにもショパンは内緒だった。

ショパンのワルシャワへの家族の手紙はロゼールに頼んでいたショパンであったが、ロゼールは2週間ショパンがパリにいなかったことをサンドに密告した。そしてロゼールに頼んでいたショパンのワルシャワ宛ての手紙は全部が郵送されていなかったとショパンはロゼールが疑わしくなったのだ。

ショパンは手段を変えたのだ。グートマンがワルシャワまで郵便を使わないでグートマンの手からショパンの家族宛ての便りは直接手渡されることになったのだ。

アドルフ・グートマン( 1819年1月12日 ハイデルベルク - 1882年10月22日ラ・スペツィア)ドイツのピアニスト、作曲 、フレデリック・ショパンの弟子で友人

彼はショパンと勉強するために1834年にパリに行き、ショパンのお気に入りの親友となりました。1838年3月3日に彼はショパンと協力して、シャルル=ヴァランタン・アルカンとピエールジョセフ・ツィンマーマンアルカン、とショパンとグーとマンの4人でベートーヴェンの7番シンフォニーのアレグレットAllegrettoとフィナーレFinaleを演奏した。

彼はショパンの作品の数々の写譜を務めました。ワルシャワの彼の家族にショパンの手紙を届けるための宅配便を務めました。グートマンの作品は、練習曲Etudes(作品12)はショパンに捧げられました。グートマンはショパンが息を引きとる時に立ち会い、ショパンに最後の飲み物を与えました。

グートマンは1882年10月22日イタリアのラ・スペツィアで亡くなりました。