「宇田川源流」 政治家はなぜ存在するのか?という感覚から考えるトランプ発言の真意 政治とは何のためにあるのだろうか。
「宇田川源流」 政治家はなぜ存在するのか?という感覚から考えるトランプ発言の真意
政治とは何のためにあるのだろうか。
実際にそのように考えると、様々な意味で考えさせることがある。これを日本のこととして受け取るのではなく、アメリカも含めて各国共通であるということを考えると、なかなか面白いのではないか。
原則論として「政治家は、その国が発展しその国の国民が幸せになるように政治を行う責任がある」ということになる。しかし、この「国が発展し、国民が幸せになる」ということが、抽象的であるために、そこに様々な思想が生まれることになるのである。例えば、安全保障に関して、「戦争をしないことが発展と国民の幸せになる」ということは明らかなことではないか。よって、戦争を好んで行うような政治家は、基本的には古今東西いないということになる。それでも戦争が行われるのは「戦争をしなければ、国の発展と国民の幸せを確保できない」ということであり、その同一思想が為政者の中の過半数または、議会の過半数に達した場合、同時に、国民的な熱狂があってそのような世論が国内に充満した時に戦争が行われることになる。
この「戦争をしなければ国の発展と国民の幸せを確保できない」という思想は、日本ではなくても陥る思想であり、なおかつ、その思想は時代に関係なく行われる。また、陰謀論などを考えた場合、そのような思想に仕向けるように陰謀を張り詰めさせ、なおかつそのような陰謀を行うことによって、あえて無謀な戦争に仕向けることなどが往々にして行われる。戦前のゾルゲ事件などはまさにそのような状況に陥っている状態であり、そのような工作に気づいても戦争を回避できなかった日本政府は、すでに国民的な熱狂によって取り返しのつかないところにまで行っていたということになるのではないか。
戦争であってもこのように解釈にしては「国家のため」ということになっている。では、その「国家のための政治」というのはいったい何なのであろうか。そのことを改めて考える必要があるのではないか。
トランプ氏"国嫌うなら出ろ"
アメリカのトランプ大統領は、白人ではない民主党の女性議員を念頭に、「なぜ国に帰らないのか」とツイッターに投稿し批判されていることについて、「我々の国を嫌い、不平ばかり言うなら出て行けばいい」と語りました。
「我々の国を嫌い、ここにいることが幸せでないなら出て行けばいいじゃないか。それが私がいつも言っていることで、ツイッターで述べたことだ。不平ばかり言うなら出て行けばいいじゃないか。今すぐに出て行ける」(アメリカ トランプ大統領)
トランプ氏は15日、このように述べたうえで、「多くの人がツイートを人種差別的だと考える一方、白人至上主義団体は共感を示しているが?」という質問には、「多くの人が私に賛成するので心配していない」と語りました。
ただ、有権者を代表する議員への発言としていかがなものか、大統領としての見識が疑われるものになりそうです。(16日04:38)
2019年07月16日 04時48分 TBS
https://news.nifty.com/article/world/worldall/12198-340717/
あえて上記のように書いたのは「党利党略がいつの間にか国の発展に寄与する」と思ってしまっている政治家が非常に増えてきているからに他ならない。これは、世界的な状況でネットの政治に対す影響が出てきたために、徐々に「直接的な意見」というものになってくる傾向にあるためである。もっと単純な言い方をすれば「衆愚」に傾いてきているということになる。
実際に、ネットの中の言論を見ていると、残念ながら感情論や陰謀論といった論理的根拠やしっかりとした取材をもとにした内容で語っているものが少ない。逆に言うと、「感情論や陰謀論のような少々過激で事実と異なっても扇動的な内容の主張が多く存在し、そのような内容に尾ひれをつけて発信する内容が多く存在する」ということになる。正直な話、政治言論を学べとか、そういうことを言うつもりはないが、少なくとも自分の言論には責任を持って話をするというような感じが最も良いのではないかという気がしてならない。責任を持って話をするということはそのまま、しっかりと調べたり勉強しなければならないのであるが、そのような努力のない言論があまりにも多すぎる。残念ながら、そのような過激な言論の萌芽、右であっても左であっても、どうも受けるようである。日本もあまりかも、各国も、過激な意見の方が取りざたされるほど「平和に飽きている」状態なのである。
これが、ネットの中だけの現象であるならば、まだ不勉強な一般人が言っているだけということになるのであるが、本来総合力が必要とされる政治家の間にもそのような状況が常態化してしまい、「ネットで受ける主張」をするようになってきてしまっている。
ネットの場合は、昨日の有料メルマガの中でも書いているのであるが「ワン・イシュー」で話をするというような状況が大きく存在するのであり、そのために、総合的に見ればおかしかったり財源的に問題があるような状況が普通に語られているし、また「あるべき論」「理想論」でしかないことを平気で言い始めるのである。
さて、今回問題になっているのはトランプ大統領の移民政策。もちろん「不法」移民を締め出すというものであるが、はっきり言って「不法」者を「保護・擁護」する必要があるのかということになる。単純に不法者の保護ということになれば、当然に「犯罪者も保護すべき」というような感覚になってしまい、いつの間にか国境とか、法律とか、国民としての刺客とかそういった「国家のアイデンティティ」を失うということになる。
ここがまた考え方の問題で、「国家というものがなくなれば戦争が起きない」のか、あるいは「国家がなくても戦争や紛争は起きる」というような考え方になるのかということが大きな問題だ。そもそも「戦争」という定義になった場合は「国家と国家の武力を行使した紛争解決手段」であるから、国家がなくなれば戦争はなくなるというロジカルな内容になる。しかし、人間が人間である以上ロジカルな定義としての戦争はなくなっても、一方で、争い事がなくなるわけではないし、またその政治権力というものに関する紛争や競争がなくなるわけではない。
ここで考えなければならないことは「国家」である。まさに国家というものは「その国民の共通認識としての文化や習慣や法律を共有する地理的な結合体」であって、全く違う文化、習慣、法律、政治思想の場所から入ってくる状態に関しては、「難民」であれば一時的な非難として受け入れる場合があっても、移民として受け入れるということに関してはかなり大きな抵抗があるということになるのではないか。
そのような根本的な国家の内容を話し合ったうえで、それでも「国家を上げて移民・難民を受け入れるべき」というのかあるいは、「国家の所属する国民の生活を優先すべきであり、その余裕がない場合は、経済難民などの難民を排除する」ということが国家のためにはよいのかということになるのである。
もっと言えば、「自分の国家の政治が荒れているから、先祖伝来の土地を放棄して、政治を変える努力をすることなく、出てきてしまう」ということは「愛国者なのか」ということが非常に大きな問題になるのである。そして「愛国者でないものを受け入れて、受け入れ国家は大丈夫なのか」ということになる。難民などを人選するということはまさにそのようなことであり、その内容を選別することこそ、「国家のため」であるという考え方もあるのだ。
つまり、「根本的なことを話し合わずに、感情的な現象論の議論だけで、政権を批判し、政権の中枢人物の個人攻撃をする」というのは、ネット上の扇動的で不勉強な議論、特に陰謀論や過激論と変わらない危険性があるということになるのである。
これは、アメリカの場合、この有色人種の議員もトランプ大統領も、また民主党も共和党も同じであるということになるのではないか。
そしてそのことを非難されただけで、「人権問題」などと言うこと自体、政治家としての議論を放棄した姿でしかないのではないか。
そのような政治家を支持するような状況が継続すれば、まさに、その国は滅びてしまうのである。