自分史・1
和多志の兄弟の血縁関係は複雑怪奇!!!
兄(武):最初の妻との間に生まれた子
兄(光義):崖から転落して 院内感染で死亡
兄(数彦):義母ミサエさんの死別した夫との間に生まれた子。和多志より一歳年上、常に和多志との比較対象であり続けました。
姉(貞子):父が親戚から追い出されたとき 海鮮問屋木村家の養女となった。自分だけ取り残された恨みから 不幸な人生を歩み、くも膜下出血で死亡。時々やってきては金品を持ち出し続けた。
弟(正治)実際は兄・武の子
武は裕福な建具商から追い出され、すべてを失った父とともに山口県に移り住み和多志の実母(政)に育てられる。和多志はどうやらこの兄におもりをしてもらったようです。10歳上の兄とその友人たちに空き家の物置に連れ込まれレイプされた記憶があります。
兄は 理髪店に弟子入りし、その奥さんと駆け落ちして、子どもが生まれ、奥さんは蒸発。
途方に暮れて 我が家に帰宅。 その子は父の子として 入籍。それ故父・平治の名の一字をとり「正治」と名付けられました。
和多志の中一の時の出来事でした。
この正治君の風邪ひき時の投薬ミスがひき起した惨事が 和多志の中2の時の自殺未遂に繋がりました。「風邪薬は多量に飲むと死を招く」と知ることになったからです。未遂に終わったのは父に見つかって止められたからです。
兄・武は和歌山で犬のブリーダーもどきの仕事をしていたようですが 父に理髪店を用意してもらい、その理髪店の家主の姪と結婚して再出発することになりました。
武夫婦は 家主の家屋の一角で暮らし始めましたが 我が家を増築して同居することになりました。我が家は日立製作所の社宅2件分を買って改築していたので 受け入れることができたのですが、和多志の部屋のふすま一つ隔てたとなりに 暮らすことになりました。
和多志は父も嫌いでした。両親が和多志と数彦さんを巡って争っていたからです。
父は義母に内密でお小遣いを渡そうとしたり、数彦さんに「誰のおかげで生きていけている云々」の暴言を吐いたのを小耳にしたからです。近所の心無い大人から「お母さんがいないのによく大きくなって・・」と言われたりで 母は義母であることを知りぬいていましたから「なぜ生んだ!!!」と 何度も父を責めました。
家庭は和多志の居場所ではありませんでした。生きることにきりきり舞いを舞っていた和多志は 職員室、理科室、図書室、そしてプロテスタント教会が逃れ場でした。
退学届けまで出した高校を無事卒業し、家族から脱出するかの様に、県外就職の道を選びました。
関西ペイントKKに就職することになり 堺に住む父の妹のところで下宿することに決まりました。故郷を後にするとき,父が見送りたいといいましたが 「友達に送ってもらうからいい」と言い切りました。父の寂しそうな顔が今も蘇ります。
大分県の漁師町に生まれた父は 幼いころから伝馬船の櫓をこぎ続けていたので、腕力があり、畳職人として良い仕事ができていたようです。丁稚奉公先の主人からその腕を見込まれて養子に迎えられ、一男一女を授かりましたが 妻は病死してしまいました。
遺産が父の手に渡ることを嫌った親族から 父は追い出されてしまいました。多分息子を肩車にして 関東煮を買いに出かけた時ではないかと推察します。
父は鬱状態になり、堺に住んでいた実妹のところに 身を寄せることになりました。
継母育ちの父は この妹とのみ交流があったようです。
堺の叔母はこともあろうに熱心な創価学会会員でした。(その勧めで 和多志が高校生の頃、家族は創価学会員になりました。和多志も集会に二度参加しましたが その時の集団陶酔したエネルギーに嫌悪を感じ、仏教との出会いの窓口を閉じてしまいました。)
叔母はプロテスタント教会に通う和多志を知ると「ご本尊様とキリストとどちらが勝つか」と毎晩和多志の枕元で呪いの勤行を上げ続けます。食事も抜かれ 会社で出る昼食だけで済ました日々もありました。西も東も分からない大阪の地で途方に暮れましたが、職場の同僚の家に下宿させていただくことになり、何とか生き延びてしまいました。
創価学会への怒りが キリスト教に賭ける 一翼を担ったのかもわかりません。
先日のシーターヒーリングDNAのセミナーのペアワークで先祖の開放もしました。
この時見たのがこの父です。もちろん成仏。聞こえてきたのは「ありがとう~~~」でした。
父の遺書には「人間らしい生活をしてみたかった。それを叶えてくれてありがとう」と書かれていました。
魂の成長のために歩む人生の 痛みや嘆きはその過程を豊かにする課題なのかもしれません。