『源氏物語』
そのとき光源氏が
密通の柏木に突きつけたものは?
100時限目◎本
堀間ロクなな
2011年3月の東日本大震災が起きたとき、マスコミではさかんに「千年に一度」の地球物理学的な事態だと伝えられた。その見解にもとづくと、前回の同様の事態は西暦9世紀後半、平安初期の貞観年間前後のことで、およそ40年間にわたり日本列島の各地が大地震や大津波に見舞われ、また、富士山をはじめあちこちの火山が大噴火した記録が残っている。なんら科学的な知見のなかった当時、人々は阿鼻叫喚の地獄絵図にひたすら恐れおののくことしかできなかったろう。
一方で、日本史年表を眺めて気づいたのは、ちょうどこの時期にひらがなが現われたことだ。それまで中国の漢字を借用しての和文表記は試みられてきたが、未曾有の天変地異のもとで独自の文字体系が発祥し、おもに宮廷の女性たちによって育まれ、世界に例を見ない女流文学の百花繚乱が現出して、ついに『源氏物語』をもって頂点をきわめた。これは何を意味するのか。ひとつの仮説として、日本列島の危機的状況が新たな物語の地平を切り開いたと考えられはしないだろうか。
もとより「千年に一度」の事態にまつわる仮説を立証のしようもないのだけれど、ひとつだけ、それよりスケールは小さいながら類似の現象が思い当たる。1945年8月の太平洋戦争敗北後、焦土に生まれた団塊の世代の池田理代子、萩尾望都、大島弓子らによる少女マンガの勃興だ。彼女たちが描く物語もまたおよそ世界に例を見ないもので、かつての平安女流文学と同じく、やはり「性」の深淵が凝視されていた……。
つまり、こういうことだ。天災であれ、人災であれ、日本列島が壊滅しかねないほどの危殆に瀕したのちに、この国では新しい種子が芽吹くように新たな表現が現われる。そして、それを担うのは女性たちなのだ。なぜか。まさしく地獄絵図と化した国土にあって、とりわけ次世代への生命連鎖を担う女性は底知れぬ恐怖に直面するはずだ。実存的な恐怖。だが、女性は必ずそれを乗り越えて未来へと歩み出す。そのとき、みずから逃げも隠れもせず「性」と向き合うためには、できあいのものじゃない、未知の表現方法によってアップグレードされた物語を必要とするのではないか。
もし以上の仮説が成り立つならば、現在われわれが直面している日本列島の活動期が終息したあかつきには、ふたたび世界文学史に屹立する人物が登場することだろう、千年前の紫式部のように。その『源氏物語』において、わたしがひときわ戦慄した個所を書き抜いておく。
全54帖のうちの35帖(ないし34帖の後半)にあたる「若菜 下」の一節。光源氏は、ふたり目の正妻・女三の宮と、長男・夕霧の親友である柏木衛門の督がひそかに契りを結んでいたことを知り、その相手に向かって「年寄りは酔うと泣けてくるのを若いあなたは笑うでしょうが、いずれあなたもそうなるのですよ」と告げて、無理やりに盃を勧める。ことが露見した恐れのあまり柏木は気分がすぐれず、頭痛さえ襲ってきて、なんとか逃れようとするものの許されない、という場面だ。
主人の院、「過すぐる齢に添へては、酔ひ泣きこそとどめがたきわざなりけれ。衛門の督心とどめてほほゑまるる、いと心はづかしや。さりとも今しばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老はえのがれぬわざなり」とて、うち見やりたまふに、人よりけにまめだち屈じて、まことにここちもいとなやましければ、いみじきことも目もとまらぬここちする人をしも、さしわきて、空酔ひをしつつかくのたまふ。たはぶれのやうなれど、いとど胸つぶれて、盃のめぐり来るも頭いたくおぼゆれば、けしきばかりにてまぎらはすを、御覧じとがめて、持たせながらたびたび強ひたまへば、はしたなくて、もてわづらふさま、なべての人に似ずをかし。
ここには、四季が綾なす王朝絵巻にあって優雅のきわみたる名門貴族が、いったん自己の性の領域に闖入してきた者に対して向けるまったく別の顔つきが窺われるのだ。結局、柏木はこのあと病床に伏して、そのまま息絶えてしまう。光源氏が強要した盃の正体について、紫式部は何かしら暗示しているようにも思えるのだが、深読みに過ぎるだろうか?