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13th hour garden

玉蘭の咲くころ (一)

2016.03.28 14:27

香落渓の家が見えると、その白い大きな花の木が真っ先に眼に飛び込んできた。


3月に入っても続いていた冬の気候が、この1週間ほどの間でようやく弛み、周りの景色もはっきりと春の到来を思わせるものへ変化してきていた。狭霧が通う瀧上高の校舎の周りに植えられているソメイヨシノも日ごとに蕾を膨らませ、あと数日で早いものはほころび始めるだろうと思われた。もっとも、狭霧が仮住まいを置く香落渓には開花の遅い山桜が多いのか、まだ桜の咲く気配もない。その代わりのように、点在する民家や建物の周囲に植えられた馬酔木や木蓮といった花木が、早春の渓谷に彩りを添えていた。

狭霧達の借りた民家の小さな庭先にもそれらの花木は植えられており、その中でも一際大きな白木蓮がしばらく前から盛りを迎えていた。

白木蓮は白い大きな花弁と芳香を持った花が特徴で、早朝の庭先で朝日を受けて、あるいは、午後遅くに西日に照らされて輝く純白の花が枝一杯に咲き誇る様の見事さは、見る度に一瞬はっとさせられた。

その時も、狭霧は玄関に入る前に足を止め、しばしの間、白木蓮の姿を眺めた。

木の下の地面には、白い花びらがいくつか落ちていた。数日前に降った雨で落ちたのだろうか。短い間にも確実に季節は移ろっていく。

狭霧が長柄とともに香落渓に住み始めてから、初めて迎える春も少しずつ深まろうとしていた。



「ただいま・・・」

そう声を掛けて、狭霧は玄関を開けようとして鍵がかかっていることに気が付いた。そして今朝登校する前に、長柄が甲賀の里へ顔を出しに行くと言っていたことを思い出した。

狭霧は鞄から鍵を出して玄関の戸を開けて家に入った。自分用に割り当てた和室で制服を着替えながら、長柄は夕飯を向こうで済ましてくるのだろうかと考えた。炊事や掃除などの家事は、狭霧の世話係の名目上長柄が担当することになっている。けれど、実際には狭霧も家事を行っていて、特に夕食は狭霧が作ることのほうが多かった。狭霧自身は慣れていることでもあり、考えるより先に体が動いているのだが、食事の支度で狭霧に先を越される度に長柄はひどく恐縮して申し訳なさそうにするのだった。恐らく里のほうでもゆっくり過ごすことなく、用事が済めば急いで香落渓に戻り、夕飯の準備をするつもりのはずだ。

そう推測しながら、既に夕食の献立を考え始めていた狭霧の頭に、さっき見た白木蓮が思い浮かんだ。白木蓮には鎮痛や疲労回復などの薬効があるのだが、原産地の中国では料理や茶としても用い、芳香のある蕾を粥に入れて食すのだという。

今日はそれを試してみるかな。そう決めると、狭霧はいつものように台所へ立った。


日が落ちる前に、長柄は香落渓の家へ帰ってきた。手には里で渡されたらしい風呂敷包を持っていた。

「おかえり。・・・里の皆は変わりなかったか」

玄関を入ってすぐ横にある和室で長柄を迎えた狭霧は、長柄の帰参の挨拶を受けてから、そう聞いた。

「はい、長老殿をはじめ、皆様お元気そうなご様子でした。どなたさまも狭霧さまのことを気にかけていらっしゃいました。日々学業と修行に励んでおられるとお伝えいたしました」

長柄は、狭霧の質問に答えてから、

「それと、小鉄さまの御母上様より、こちらを狭霧さまにと預かってまいりました」

そう言って手にした風呂敷包みを差し出した。狭霧が受け取って包みを開けると、中には、白の単衣が入っていた。小鉄の母が手ずから縫ったものに違いなかった。短い手紙が添えられており、細い女文字で「狭霧へ。季節の変わり目ですから身体をおいといなさい。この単衣は寝間着にでも使うように」と書かれていた。

手紙を読むと、狭霧は丁寧に単衣を風呂敷に包み直して脇へ置いた。その表情からは久しぶりに里の様子を聞かされて狭霧が何を思ったか、長柄には読み取ることができなかった。けれど、もう一つ狭霧に伝えなければならないことがあった。長柄は居住まいを正し、表情を改めてから言った。

「狭霧さま」

「うん?」

長柄の改まった様子に、狭霧も気が付いたようだった。

「長老殿よりお言付けでございます。・・・修行を終えられて里へお帰りになられる日を、里の者一同、心よりお待ち申し上げると」

「・・・そうか」

少し間を置いて、狭霧はそれだけ言った。そして、小鉄の母がくれた風呂敷包を手にすると、「部屋に置いてくる」と言って立ち上がり、隣の自室へ消えた。

長老の言葉を聞いた狭霧の反応は大きくも小さくもなく、その表情も変わらなかった。しかし、表情、言葉に出さずとも、長老の短い伝言に込められた重みを狭霧は痛いほど感じ取っているはずだった。

長柄にとって、己の唯一と決めた主人の小柄な身体に課せられた重圧のほどを想像することはできても、所詮下忍の身には実感として理解することはできなかった。そして、理解ができなかったからこそ、かつて狭霧を裏切り者として手にかけようとした。万死に値する罪を犯した自分を狭霧に許されたとき、初めて長柄は、何故、里の皆が一度は里から逃げ出した狭霧を将来の長として辛抱強く待ち続けるのか、その真の理由を悟った。そして、再び狭霧の側近くへ仕えることを許された長柄にとって、狭霧の迷いも、弱さに見えるほど鋭敏すぎる感受性も、すべて、己が一命を掛けても護り抜かねばならないものと変わっていた。

狭霧の背負う重荷は、他の誰も、あの小鉄でさえ代わりに背負うことのできないものだった。今の長柄にはそのことがはっきりと理解できた。そして、その重圧にたった一人で向きあうには、長柄の主である少年は、痛々しいほどの幼さが残る容姿と、優しすぎる心の持ち主だった。

・・・なればこそ。全身全霊を掛けて、必ずお護り申し上げる。

そして、一度は無いものと思った命を狭霧によって救われた自分が生きる、唯一の意味もそこにある。長柄はそう確信していた。