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「日曜小説」 マンホールの中で 第二章 4

2019.08.03 22:00

「日曜小説」 マンホールの中で

第二章 4

 建前のいいことを言っていても、結局は自分のためじゃないか。

次郎吉の言うことはまさにそのような状況である。次郎吉のような本当に社会のためを思っている「義賊」はとらえられ、建前でいいことを言いながらそれを自分のビジネスにしているような悪人がはびこる。これでは、良い世の中になるはずがない。

しかし、政治というものはそのようなことしか考えない。いや、偽善であってもそれが社会的正義であるかのような顔をして、そこからの献金で成り立っている。片方で「票」というものを収集しながら、片方で「金」を集めなければな票も集まらないようになっている。その金で集めた票を集めた人間が、法律という社会のシステムを作っているのであるから、良い世の中になるはずがない。

昔の世の中ならば、例えば上杉鷹山のような素晴らしい為政者がいて、その偽善的な社会的存在をすべて排除してくれたに違いない。それは上杉鷹山がそれら偽善者とのもたれ合いの関係になかったことと、そして当時の米沢藩という全体のことを考えていたからであり、現在の日本の民主主義のような、金・票・政治が一体化している状況ではないからである。

 とはいえ、さすがにこのようなマンホールの中で、何かを語ったとしても、それは、単純に戯れ言にすぎず、世の中が変わるわけでもない。

「世の中から偽善をなくすというのは、実はかなり難しいことなんじゃないのか」

 善之助は、長い、といっても本人たちが長いと思っただけでしかない沈黙の後で、やっと絞り出すようにその言葉を出した。

「そうだろ。だから泥棒ということになる」

 次郎吉は、ある意味で自慢げな言葉であった。

「確かに、そうかもしれない。いや、何かが違う気がするが、しかし、手段としてそれしかないのかもしれないということはなんとなくわかるなあ」

 善之助は独り言のように言った。

「爺さん、俺は自分が盗人である、つまり犯罪者であるということを自覚しているし、それを否定する気はないんだ。もちろん人様の物を盗むというのはあまり良いことではない、いや、絶対にやってはいけないと教えていることは当然のことだ。まっとうに働いて、しっかりと自分のものとして大事にしている人が、その愛着のあるものを盗まれたら、それは悲嘆にくれることになるだろう。しかし、偽善で他人様の善意を巻き上げているものを、一般の人に還元するのには、結局泥棒しかないんだ」

「まあそうだが」

「この世の中でもっともたちが悪いのは、間違いなく法律というものを守って悪いことをしている奴らだ。法律を守っているというだけで、国家権力が奴らを保護する。しかし、それでいいのか。違うだろ、爺さん。そういう輩には、違法でも制裁を加えなければならない。ただし命を奪ってはいけない。やり直す機会がなくなるからだ。そうだろ」

 次郎吉の言葉は、かなり熱がこもっていた。何かが違うと思いながらも、善之助もそのままうなづくしかなかった。

「まあ、そういうものかもしれないな」

「爺さんも、そういう考えでいてくれるのはうれしいよ。」

 次郎吉はやっと落ち着いたのか、声が穏やかになっていた。目の見えない善之助にとって、その雰囲気や息遣い、そして、話す速度などからしか、相手の感情を計ることはできない。その意味では目が見えなくなってから長い善之助にとって、その辺の呼吸を図ることはそんなに難しいことではない。しかし、今置かれている状況から、冷静に相手の呼吸を図ることはできない。それでも、その違いくらいは十分に分かるほど先ほどは興奮していたようだ。

「なんだ」

 急に、またマンホールの上が騒がしくなった。

 不幸というものは連続するものである。化学薬品が爆発して、放水を中止せざるを得なくなった。そのために、トラックと化学薬品がトラックに積んであるだけすべて燃えるまで焼き尽くされることになった。

 しかし、それだけでは済まなくなっていた。ガス、そして化学薬品、それだけのものが燃えたために、道路沿いの建物にも火が延焼し、そして、そこにあったガソリンスタンドに引火したのである。

 消防や警察は科学消防隊を待っている間、負傷者の救助を行っていた。しかし、救急車の数も足りずに、さながら野戦病院のように、負傷者がアスファルトの上に引いたビニールシートの上に並べられた。多くの人がそこで応急処置をしているときに、その前のガソリンスタンドが、あまりの熱で引火し、大爆発を起こしたのである。

 犠牲者は増えるだけではなく、マンホールの中に落ちた善之助を救助できる状態ではなさそうであった。それどころか、マンホールの上に、ビニールシートが敷かれ、その上に重傷火傷を負った消防員が横たわっていた。

「花火大会ではなさそうだな」

 次郎吉は、音だけでそのように言った。マンホールの上の状況などは彼にとっては関係ない。それどころか、普段から仕事以外にマンホールから出ることも少ない。マンホールの上にこれほど爆発音が響くことはなかなかないのである。

「音でわかるのか」

「ああ、車が衝突した音は、衝突音というよりは何かまっすぐなプラスチックが割れるような音だ。ガス爆発と、石油の爆発は音が違うんだ。今回わからなかったのは、さっきの爆発だけだ」

「では今の爆発はわかるのか」

「ああ、たぶん石油か、なにかそんなもんがまた爆発したみたいだな」

 なれというものは恐ろしいものである。マンホールの下で、いろいろな音を聞いていると、その音で地上に何が起きているかがわかるという。善之助自身、目が見えなくなってからそうであるが、しかし、さすがに爆発音などはあまり聞いたことがないので、その音の違いを聞き分けることはできない。毎日このマンホールの下にいる次郎吉は、それがわかるというのである。

「すごいねえ。目が見えなくて、音しか頼れないこの爺さんには、本当はそれくらいわからなきゃならないんだろうけど。」

「まあ、爆発の音なんでそんなに聞けるわけじゃないからな」

 次郎吉は、先ほどまでの話題などはすべて忘れてしまったかのように笑った。

「まあ、爺さん。これで当分は救助は来ないよ」

「ああ、マンホールの上の火が消えるまでは、なかなかここまでは気が回らないだろうね」

「それだけじゃない。日本の救急というのは、目の前にいる人々をすべて片付けてからしか次のことはしないようだ。だから、上の人々が片付いてからしか、マンホールの中までは探しに来ないんじゃないかな」

「まあ、もう少しゆっくり話をしようか」

「さっきもそんなこと話していたな」

 次郎吉は、また笑った。

「ところで、次郎吉さんは、小さいころ何になりたかったんだい」

 善之助は、なんとなく先ほどまでの障碍者や日陰の身の話から話題を変えたくて、わざと違う話題を振った。たぶん、次郎吉は、さっきの話と、そして自分の泥棒を正当化することを話したいのに違いない。それは、次郎吉自身が泥棒ということに何らかの罪悪感があるからに違いないのである。罪悪感がありながら、それ以外に事ができないということで、仕方なく泥棒をしている。そして、その折り合いをつけるために、社会的に悪い奴しか狙わないとしているのだ。

 しかし、善之助の立場から考えれば、そのことを反芻させることによって、次郎吉は自分自身で反省し、そして自分を傷つけてしまっていることになるのではないか。それを隠すために、怒りが沸き、感情が高ぶるのであろう。次郎吉が楽に話をするためにも、ここは話題を変えるべきだ。善之助はそう思ったのである。

「小さいころかい、爺さん。」

「ああ、どんな子供時代だった」

 次郎吉は、遠い昔を思い出すように、少し間をおいていた。

 善之助は、このような時に目が見えたらいいなと思っていた。このような時、次郎吉はどのような表情をしているのであろうか。目を細めているのか、あるいは、少し微笑んでいるのであろうか。

 昔を懐かしむというのはなかなか良いものである。だいたいの場合、昔というのは、悪い思い出は消えていしまってよい思い出だけが残る。もちろん、そうではなくトラウマなどになっている場合もあるが、しかし、それは数は多いかもしれないが特殊事情でしかない。基本的には嫌なことは忘れるように人間の脳はうまくできているのである。

 その脳の動きから、たぶん、何か満足そうな表情をしているに違いない。善之助は、見えないながらもそのように確信していた。

「爺さん、ところで、泥棒なんかしている俺は、小さいころ貧乏だったと思うかい」

 次郎吉は、善之助のそのような感覚を打ち破るように、全く予想外の話を始めたのである。