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Botanical Muse

生きる糧

2019.08.23 08:28

ファッションがぐっとカジュアルになる猛暑がやってきた。皆さんもよくご存知のとおり、スタイルのいい人と悪い人との差が、くっきり出る季節である。若い人なら何気ないカジュアルな服を着ても一向に構わない。かえって肌のピチピチが引き立つ。しかしTシャツとデニムでゴージャスで似合うのは大人世代になるとまれだ。自分では昔のとおりに着こなしているつもりでも、やはりくたびれた印象は免れない。


この私とて、むなしい努力を日夜重ねている身の上である。エディターのインスタグラムもすみからすみまで見る。ファッション誌の「着まわし特集」も研究する。どういうものが今、流行っていて、大人の女性なら何を取り入れればいいか、ということをセンスのいい友達から聞く。


しかしおしゃれな女の人とご飯を食べたりすると、その後は反省が多過ぎて、自己嫌悪に陥ってしまう。

「なんて場違いな服を着てきたんだろう」、「アクセ遣いがなってないじゃない」、「私ってもっさりとしていてアカ抜けていないわ」


そしていまさらながらあることに気づいた。おしゃれとかファッショニスタ、といわれる女性は、小物に凝りに凝っているのである。バングルをつけリングもいっぱいしている。しかもさりげなく。そしてベルト、靴、バッグの端々まで神経がいきとどいているのだ。


ふだんおしゃれに縁のない女性は、アクセサリーというと、せいぜいがネックレスである。端的に言うとここで力尽きてしまう。バングルまで気がまわらないのである。考えてみると、バングルは、大きな象徴かもしれない。あってもなくても構わないような気がする。基本的なアイテムではない。しかし、あるとないのとでは大違いなのだ。


「いい、小物でポイントをつくって視線をちらすと、カジュアルな服装のとき体型の崩れをカバーできるわよ」と大活躍中のスタイリストさん(美人・モテる)から有り難いアドバイスをいただいた。

なるほど、小物づかいが大人の女性を救うのね。


さて大切な夏のアイテムといえばサングラスである。私は電車の中や街で、よくサングラスをかけた女の人を観察する。そしてわかった。この世にはサングラスのために生まれてきた人が存在するのだ。


サングラスが似合う人というのは、背が高い、骨格がしっかりしていて鼻が高い、顎がシャープ、顔が小さい、という条件を満たしている。が、こうしたことよりも、もっと大きな条件があり、それは“びくびくしない”ということであろう。


室内で堂々とサングラスをしている人は、みんな自分に自信があるようにみえる。サングラスなんて、もう一般的などうっていうことないアイテムじゃない、というのは簡単だ。だけど、やはり女性の自意識やうぬぼれと微妙にからんでいる非常に扱いにくいアイテムである。


小心の私はサングラスをかける勇気がないまま日にちが過ぎていく。全く自分の度胸のなさに涙が出る。いつもこうやってサングラスを何個も無駄にしてきた。でもいいんだ。これからは美人のいないところでひとりかけることにします。


そしてサングラスときたら今度は帽子だ。私はずっとずっとキャップというのに憧れていた。そう、ストリートスタイルの男の人がさりげなくひょいとかぶるアレである。この頃おしゃれな女性は、このキャップをかぶっている。それがとても羨ましかったのだ。


が、私は後頭部が張っているうえに髪の毛量が多い。頭がいい証拠と慰めてくれる人がいるが、実態はこのていたらくであるから、あたっていない。

そんなわけで帽子はまず入らない。が、かぶってみたくなるのが帽子というもの。ゆえに人がいないときを見はからっていつも試着する。しかし入ったためしがない。


このあいだは有名スポーツメーカーのお店に入ったところ、売り場は広く、しかもひとけがない。私は女性ものから男性ものまで、いろいろなものをかぶったのであるが、メンズのLサイズでもきつかったのはいかにも無念である。ちらっと鏡で見たら、髪の毛に帽子の跡がくっきりとあらわれていた。とてもみっともない。

ゆえに私はいつもイケてないおばさん帽子をかぶる。これにどんな素敵なお洋服を組み合わせてもしれたもんだ。


そうそう、思い出したわ。昨年の冬、私はある海外のモデルさんに憧れ、毛皮の帽子を買った。お店で見たときはすごく可愛ったのに、家でかぶってみたらロシアのヘンな占い師になってしまった。しかも昨年の冬はすごく暖かかった。


そんな失敗を何度繰り返してきたことであろうか。

昔から流行の服や小物を買い、ありとあらゆるおしゃれを試してきた私に、人は呆れたり、「豊かさを幸せって思っちゃいけない」と発したものだ。

豊かさイコール幸せ、と思う考え方を捨てることは、“エコ系自然派女”になれっていうことと、私は考える。それはそれで結構なことであるが、私は憧れることはなかった。


やはり都会の真ん中に住み、おいしいレストランを知りたいと思う。先端的なメイクやファッションをまとう心浮き立つ作業を手放したくないし、行きたいときにエステに行くぐらいの余裕は持ちたい。そういうことを生きるバネにしてきた。


もちろんファストファッションの楽しさというのもよく知っている。しかし、大人できちんと仕事をし、キャリアを積んでいる女性だったら、五万円のTシャツがどういうものかもわかっていなくてはいけない。そしてそれを着るときの心地よさが、よし今日も働くぞ、という思いにつながるのではなかろうか。


あるとき「洗練」という文字を見てわかった。洗われて練られていくことだ。つまり過剰なくらいいろいろなものを持っていた人が、次第にそぎ落とされていくことを言うのではないか。となれば最初から素朴な人は洗練には届かないはずだ。


洗練された女性になりたいと少女の私は思い、その願望から今も逃げられない。だからこそ、モノを本当に欲しいという心をずっと大切にしてきたのである。欲望こそ私のすべてのエナジー源だ。


この国の女性は、ものすごい勢いで若返り、そして強烈な魅力を持つようになった。が、それは同時に、女性たちにいろんなものを課するようになったのだ。もう降りたい、と思っても、なかなか世間はそれを許してくれない。全く、大人の女性がこれほどおしゃれでキレイでいなくてはいけない時代が、かつて日本に存在したであろうか。

だから鏡の前で立ちつくす時間は長くなる。大人世代の女性というのは、とてもデリケートなお年頃なのだ。