この道の先には…
まるで予期せぬ我が子の自死。
予定していた私の左肺全摘除手術は、四十九日が終えたあとに延期してもらいました。
手術自体は無事成功したものの、肋骨を一部切断して肺を取り除くという大がかりなものだったので、術後創部の痛みは今思い返しても相当なものでした。
肋骨は、言うなれば一部骨折している状態です。
たとえ痛みが弱まってきても三カ月間は重たいものを持ち上げるのはタブー、一般的な運動もタブーでした。
けれど創部回復までにかかる時間は、ある程度予測できていましたし、入院中であれば即効性のある痛み止めを打ってくれます。
食事や身の回りのことも病棟にいる間は心配ありません。
ところが、大切な人の自死で受けたショック……、心の『痛み』と『傷み』は想像を絶するものであり、入院中だろうがなんだろうが容赦なく襲いかかってきます。
にもかかわらず、目に見えて心の傷の酷さはわからないのです。
その苦痛による症状が表立って出てくるとも限りませんし、緩和するために心療内科などで出してもらえる処方薬はあるとは思いますが、たまたま私のリアフレに(自死ではないのですが)パートナーを突然喪した方がいて、一生懸命私の言葉に耳を傾け、助言をくれたのです。
「症状の程度にもよるが、心の苦痛を緩和する薬はできるだけ使わないでほしい」
「自分はかつて、あまりの辛さに心療内科を受診して頼ってしまったけれど、感覚を鈍らせるような薬だった」と。
リアフレが言うには、個人的にはすぐに断薬して正解だったと。
あのまま飲み続けていたら職場復帰ももっと遅くなっていたか、もしくは廃人に近い状態になっていたようにも思う……、と。
もちろん個人により症状は違いますし、ましてや目に見えてわかりにくい心の苦痛です。
一概に言えるものではないのですが、体と心のダブルの責め苦にあいながらそのとき私が考えさせられたのは、“薬を頼ってもいずれは断薬しなければならない”、なぜなら、“どんな薬にも副作用は伴うだろうから”ということでした。
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外科は術後十日間で退院させられてしまいました(^_^;)。
晴れて退院したというより、退院させられたといった感じだったのは、普通の生活ができるようになるまでそこから最低でも三カ月間、自宅療養と自宅リハビリをせねばならなかったからです。
そして体の苦痛に加え、心の苦痛も伴っています。
まさに生き地獄でした。
家族は心配してくれてるのでしょうけど、家族だからこそ思いきり頼ることができない心の苦痛。
なぜなら、家族それぞれも同じような苦しみの中で悲嘆に耐えているのだと想像できるからです。
そんな私の気持ちの捌け口は、ウェブ上の自死遺族サイトでのコメントのやりとりでした。
今でもその時のやりとりは、数カ所のブログやサイトに残っています。
顔の見えない言葉だけのやりとりでも、かえって、どこにも外出できない体のリハビリ中の私にはとても助けになりました。
自死遺族同士のコメントの中で、一番心に刻んだのは『無くなることのないこの悲しみと共に生きていく覚悟』という内容だったと思います。
覚悟、なんて言うと大袈裟な感じもしますが、この言葉が一番しっくりきたことを覚えています。
――そうか、悲しみは無くならない。なぜならそれほどに大切な人との死別だったのだから。
――そうか、この先生きていくとしたら、その悲しみと共に生きていくことになるんだな。
文章にして書き出していくことは、心の整理にもなるのだなと、このとき思いました。
突然のショックな出来事で、大破した心の破片を拾い集めて、少しずつでも片づける作業に近いのかもしれません。
でも、木っ端みじんに近い状態なので、それらを拾い集めたところで修繕は不可能なのだということも思い知りました。
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退院一カ月後からは、歩く練習も始めました。
毎日毎日少しずつ距離を長くしてウォーキングする、そのウォーキング中に考えることはひたすら先立った我が子の事でした。
毎日毎日、我が子が通っていた中学校の周りも歩きました。
我が子が旅立った場所が見えるところでは立ち止まり、合掌しました。
雨の日も風の日もカンカン照りの日も、毎日毎日……。
一種の荒療法ですよねぇ……(;^ω^)←マゾか私は
しかし私個人にはこの療法(やり方)が合っていたと今は言えます。
人それぞれにやり方や道は、探せばあるでしょうが、自分的にはまずこれでした。
体と心の責め苦にあったのも無駄ではなかったようです。
そして一つはっきりしたことは、適度に体を動かすと、ほんの僅かであれ心がすっきりするということでした。
悲しみにしょぼくれながら、半分投げやりな気持ちで始めたウォーキングトレーニングも、いつしかスマホを片手に、まわりの景色、道端に咲く草花にも徐々に目をとめるようになっていったのでした。