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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄の旅 Day 02 (03/08/19) Tsuboya Yachimun Street 那覇 壺屋やちむん通り

2019.08.04 06:16

Tsuboya Yachimun Street 那覇 壺屋やちむん通り

昨夜は疲れていたせいか、熟睡で、土肥さんが、今日は土肥さんが泊まりで離島に行くにも関わらず、朝目が覚めたが、またすぐに眠りについてしまい、次に起きた時には土肥さんは既に出発した後で、昼になっていた。失礼な事をした。 少し寝すぎた。頭が重い。寝すぎるといつもだるくなる。やはり朝は規則正しく早く起きなければと思う。

町歩きで眠気を覚ます。すぐに気がつくのは家や塀の前にある「石敢當 (いしがんどう、いしがんとう)」で丁字路や三叉路には必ずと言って良いほどある。これは魔除け。魔物 (マジムン) は直進する性質を持つため、丁字路や三叉路などの突き当たりにぶつかっても向かいの家に入ってきてしまうと信じられている。そのため、丁字路や三叉路などの突き当たりに石敢當を設け、魔物が石敢當に当たると砕け散ると信じられている。これは福建省に起源があり、沖縄は福建の影響が多く残っている。その一つ一つはこれから訪問する先で紹介しよう。

Tsuboya Yachimun Street 那覇 壺屋やちむん通り

アパートにはインターネットがないので、近くのマクドナルドでWiFiに接続して、作業を始める予定。このマクドナルドがある地区は壺屋というところ。観光地になっている。壺屋やちむん通りといって、陶器や磁器の産地だったところで、まだ数軒窯元が残っており、壺屋やちむん通りには、壺屋焼き物博物館や焼き物の販売店、体験工房などがある。ちなみにやちむんとは琉球語で焼物という意味。土曜日だが、あまり人通りは多くない。そのせいか、しまっているところも多い。

シーサーも阿吽があるんだ! 狛犬もシーサーも起源は同じエジプト/メソポタミアだが伝来したルートとその過程で役割の違いがあるそうだ。狛犬は中国、高麗から7世紀に日本に伝わったり阿は獅子、吽は狛犬で共に魔除けの役割。一方沖縄のシーサー (琉球語では獅子さんの意味らしい) は13世紀に福建から伝わり2匹とも獅子で阿はオスで福を呼び込み、吽はメスで魔除けの役割と微妙な違いがある。シーサーは家に置かれているので、狛犬よりもっと生活に密着したものだ。これも沖縄の特徴に思える。

登り釜のある窯元

ここの窯元はほとんどが廃業か作業場を郊外に移しており、ここでは焼いていない。釜から出る煙やすすに苦情が出たため。現在は体験工房や販売店がほとんど。

この壺屋地区の見所はやちむん通りの目抜き通りよりも、そこから細い路地にはいって行った所の方が面白い。まだまだ昔ながらの曲がりくねった細い路地に石塀、レンガ塀、瓦塀で囲まれた窯元が残っている。昔とは変わってきているのだろうが、まだまだ沖縄の雰囲気が多く残っている。

ここにも登り釜が...

壺屋区役所跡

沖縄戦後、最初に設置された那覇市の行政庁舎跡。那覇の復興が始まった場所。1945年 (昭和20) 11月10日、米軍の占領で住民の立ち入り禁止の旧那覇市の一角の壺屋に、陶器瓦製造のため、陶工を中心とした復興先遣隊103名が初めて入り、那覇の復興が始まった。翌1946年 (昭和21) 1月3日に、人口増加にともなって糸満管内壺屋区役所が設置され、焼け残った民家を庁舎として行政事務を開始。同年4月4日に壺屋区は糸満管内から分離して那覇市となった。今は観光地になっているが、その後ろには大変な歴史がある事に感慨深い。

Tenpura Hill てんぷら坂

やちむん通りの丘の方向に坂道がある。てんぷら坂と書かれてある。この坂に天ぷら屋が建ち並び、その名が付いたそうだが、今はそれ程多くは残っていない。一軒てんぷら屋があった。1945年 (昭和20) 11月に、壺屋・牧志一帯が米軍から開放されて天ぷら屋が建ち並んだ。賑やかだっただろう。天ぷら油はモービル油が代用されが独特な嗅いの黒煙だった。こんな食べ物でも当時はご馳走だった。住民のたくましさを感じる。

今日の観光はこれでおしまいにして、マクドナルドで作業に入る。しばらくすると近くに男性が座っている。見ていると、紙巻きたばこをブレンドし始めた。沖縄には紙巻きたばこをを販売しているところは少ないので、どこで買えるのかを尋ねると、どこから来たのと沖縄のアクセントで聞いてきた。そこから色々な話が始まる事になった。余りにも多くの事を話したので、ここで全てを書くのは大変だ。これから訪問するところでその一つ一つを書いていくことにする。

前田さんと言う人で話す時には時折琉球語を交えて、沖縄のアクセント、イントネーションがある。沖縄方言は言葉の母音が伸びる傾向にある。前田さん曰く、沖縄人は言葉が途切れず連続している方が快く感じる。本土に人が、言葉を切って話すのは聞いていてイライラしてくる。だから言葉つなぐ為に音が伸びてくる。なるほど、良い説明だった。聴く人の耳に快い話し方。自然に備わった気遣いだった。本土の人たちはこのイントネーションを聞き、その人が鈍いと感じているが、そうではないのだ。沖縄を理解するには、この話し方を快く感じることが必要だろう。前田さんの説明で快く聞けるようになった。頭の中でその話し方を真似し始めた。少し前進したかな?

もう一つ、面白いことを言っていた。沖縄の人は挨拶をしない。「おはよう、こんにちは」は沖縄の人にはよそよそしく他人行儀に聞こえるらしい。確かに、おはようと言われておはようと答え、それでおしまいは他人行儀だろう。沖縄に人はそれに冷たさを感じる訳だ。もっともな意見と思う。挨拶を礼儀としてやるのは、表面上の事で心がこもっていない。それが沖縄の人には耐えられない。おはようの代わりに、ご飯食べた〜と聞くそうだ。この方が思いやりを感じるし、会話が始まる。勿論、沖縄の人も観光客には挨拶をしているが、この前田さんの説明は沖縄人の思考を説明しているようで、興味深い。

ついでにもう一つ。沖縄で旅をしていると、無関心を装いながら、その人を観察している事があると言われた。その人が何をするのかじーと見て、分かってから声をかけてくる。と言っていた。これはどうも習慣の様だ。沖縄の歴史がそうだった様な気がする。明と薩摩のそれぞれの出方を見て、双方にそして琉球に良い方向にを確かめてから行動に移した。これは小さな力の無い琉球が生き延びる知恵であり、そのためには相手を理解する必要があった。その習慣が一般庶民にも行き渡っていたのじゃないかと思える。一個人の浅慮で村、国が苦境に陥ることも考えられた時代を生きてきたわけだから。これも本ではお目にかからなかった。

前田さんは沖縄人としての誇りがある。沖縄では本土人をヤマトンチュと言うのだが、沖縄をヤマトンチュに正しく理解して欲しいから一生懸命説明をする。それで一人でも理解者が増えれば嬉しいそうだ。

前田さんに出会えたのは幸運だった。まさにこれが沖縄に来て聞きたかった事だから、これから多くの「何故?」に出会うだろう。その時は前田さんが解きほぐしてくれるだろう。

今日は有意義な1日だった。寝坊して良かったのかも....と前向きに考えよう。