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意志と表象としての世界

2019.08.05 11:30

19世紀のドイツの哲学者ショーぺンハウアーとはドイツ観念論哲学に追尾した

実存主義の走りとも言える哲学者で、彼の”この世界は考えうるかぎりの最悪の世界だ”

という厭世観は、後にニーチェのニヒリズム(虚無主義)に大きな影響を与え、

哲学者に限らずフロイト、アインシュタイン、ワーグナー、トルストイ、

トーマスマンなど、様々な分野の偉人たちにも影響を与えた。

ショーペンハウアーはヨーロッパの哲人として初めて、

東洋哲学を観照しており、彼の思想にはウパニシャッド哲学(インド哲学)や

仏教の唯識思想の教えなどが根底にある。彼の”この世界は苦である”とする思想などには、

仏陀が最初に思想した“一切皆苦”が顕著にみられる。


彼の主著の「意志と表象としての世界」で「世界は私の表象である」と説いているのだが、

これは我々が世界だと認識しているものは自我の中にあるという考えで、

これはウパニシャッド哲学の「現実世界とはマーヤー(幻影)である」という考えに通じる。

そして彼は自我とその対になる存在の他我(自我以外の全ての世界)を定義し、

その自我と他我の全てには”意志”があるとした。

彼の定義するところの”意志”とは自発的な人間の思考の意志という意味では無く、

宇宙、世界のありとあらゆる物質の力やエネルギー、そして生物や物体の生命力、

本能、欲望などが意志だという。そしてこれらの意志は休むことなく絶え間なく

存在し続けており、自己が増大していくために動き続けてやまないというのだ。

この主体のないエネルギーで溢れた化け物のようなものが意志だという。

そしてこの意志は我々人間の中にも勿論あり、湧き上がる欲望、本能や衝動、

生きんとする盲目的な気持ちなどが意志の力ということらしい。


そしてショーペンハウアーは、我々の認識する世界は自我も他我も含めた全てが

”世界意志”の体現だとしている。彼は、絶えず変動し安定しない世界や生こそが

正常な状態であり、変化こそがこの世界に存在するときの我々の形で、

変化こそが全てだとした。我々は多くの幻想にとらわれ、全ての事象や物事は

順を追い段階を経て論理に沿って変化すると思い込んでいる。

しかし実際の生の上で我々はみな論理に沿って動いている訳ではなく、

皆が線形的に上昇する訳でもない。想像もしない現象は絶えず起こり続け、

思いがけない不幸も苦悩も起こる。自分が起こした善い行動により必ずしも

自分が幸福になれる訳でもなく、自分が望んだ結果にも勿論ならない。

この世界を動かしているのは自我と他我を含めた世界意志であり、

もし100の意志が存在するのならば、その100のそれぞれの意志が関わり合い、

自我は吸収されたり或いは他我を吸収したりして、世界は絶え間なく常に動き続けて

変動している。そして世界が変動し続けるのは意志が全てを動かしているからだと

ショーペンハウアーは我々に答えを与えている。

我々の生の上には絶え間ない苦悩や困難が溢れており、人生というものはそれはもう

計り知れないほどの不条理と非合理に満ちたものなのだと。


ショーペンハウアーはこの自我も他我も含めた世界意志は無限にあるもので、

世界に完成はなく永遠に不完全であるとも説いている。そしてこの不完全な世界は

人間にとっては苦でしかないということなのだ。この意志に沿うことも苦しみになるが、

沿わないことも苦しみになる。そしてこの世界で生きている限りは皆この意志からは

逃れられない。そして彼は、同苦(共苦)、同情や共感(シンパシー)によって世界が

あらわれてくる(表象してくる)とみた。我々は自分の苦しみは自分だけの苦しみだと

感じている。でもこの世界の不幸や苦悩(災害、病気、貧困、昏迷、喪失など)

これら全ては差異はあるものの、誰にとっても紛れもなく不幸であり苦しみなのである。

誰にだって苦悩があり、従って我々は“共苦”のなかに生きているのであると。

シンパシーとはその深いところにおいて他者に自分と同じ苦悩を見出し、共苦というものが

発生しており、世界は当初においてこの共苦ありきで成り立っているもので

そこから意志そして世界が表象してくるのだと、彼は共通の苦悩から共通の世界意志を

見出して、“共苦の哲学”を我々に提示した。


ショーペンハウアーは厭世観を説いたペシミズムの哲学者として知られているが、

彼は別に世界や生を不条理だと忌み嫌っているわけではなく、

こういった我々の世界を上手に見切っているのだと思う。

わたしはこれは仏教における諦念の考えに通じるのではと思う。

世界や自我の安寧や幸福などは、苦悩を考察することなしには起こりえない。

この世界の苦悩は世界意志そのものの体現なのであって、

そのことを理解出来たときに初めて、救いや安寧が起こり得るのかもしれない。

それこそが正に仏陀が説いた一切皆無ではないだろうか。

いくら我々が因果に様々な理由をつけたとしても、この世界のもの全てを有である、

現実であるとみている限りは、苦悩が無くなることはないし、幸福も続かない。



『意志と表象としての世界』より


"自然が何をしたとしても、幸運が何をほどこしたとしても、

またその人が誰であろうと、何を所有していようと、

人生にとって本質的な苦痛というものを避けて通ることはできない"


"満足や幸福は、なんらかの苦痛やなんらかの困窮からの解放という

意味以上のものではありえない"


"人は幸福になるために生きているというのは人間生来の迷妄である"


"誰もが結局は独りであり、いま独りである自分はどんな人間なのかが問題である"


この人のアフォリズムが私はとても好きだ。


Ashoka