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気仙沼市 2019年8月

2019.08.05 13:21


いつもよりも天気の優れない7月が終わり、ようやく暑さが本番を迎えた8月4日。 
今年は宮城県気仙沼市を訪れました。 


もはやすっかり行き慣れた三陸沖の玄関口、一ノ関駅からレンタカーで一本道を約1時間。
到着したのは9時過ぎのことでした。 

気仙沼市は、前々から来てみたかった街でもあります。 といいますのも、2011年9月に開催したBrass for Japanの第一回目。気仙沼市民吹奏楽団の方が、被災間もなくの大変な時期にもかかわらず、参加していただいていたのです。
そのころから、いつか訪れてみたいと思っていました。 


気仙沼市の街の中は、もはや震災の爪痕を感じさせる光景はほとんどありません。 
それだけきれいさっぱり、流されてしまったということでもあるのかもしれませんが。 
新しい建物に交じって、点在する残された建物。
それらが混然となって、新たな街の風景になっていると感じます。 


中心街に着いてみると、何やら交通規制がいっぱい。
そして何やら町全体に活気が。
私、全然知らなかったのですが、この日は偶然にも、気仙沼市の夏祭り、みなとまつりの当日だったのです。 



パレードの開会式には、その気仙沼市民吹奏楽団の皆さんの、素晴らしいファンファーレが。 
お忙しそうだったのでご挨拶はできなかったのですが、8年ごしの想いが一つ果たせたのでした。 

しかも、驚いたことがもう一つ。今回のBrass for Japanにご参加いただくパーカッションの小暮さん。このみなとまつりに気仙沼市民吹奏楽団の一員として毎年参加されているのだとか。
しかし、今年は残念ながらご都合により参加できなかったとのことでした。
 何にも知らずにここで小暮さんに会っていたら、それはなかなか面白い体験だったでしょう。


祭の会場をいったん離れ、今回の目的地のひとつに移動します。


気仙沼向洋高校という水産系の高校があります。

震災当時、三陸沖のすぐそばに建っていたこの高校は、4階建ての校舎の高さいっぱいまで津波が押し寄せ、大きな被害を受けましたが、日ごろの訓練と先生方の適切な誘導のおかげで、生徒・教職員合わせて約200人、一人の犠牲者も出さなかったことで、一躍有名になりました。

被害を受けた旧校舎は震災遺構として整備され、今年の3月10日、「気仙沼市東日本大地震遺構・伝承館」として一般公開されました。 私は2015年に、まだ一般公開されていない時にこちらの高校に訪れたことがあります。 

今回このニュースを聴き、ぜひ行ってみたいと思っていたのでした。 



この施設の内部は、津波を受けた当時からほとんど手が付けられていない、当時のままの姿を保存しています。 


言葉は不要です。まずは写真をご覧いただきましょう。

つらい写真です。 見れないという方は、どうかご無理をなさらぬよう。






正直、息が詰まります。 


不謹慎を承知で言うならば、数年前に訪れた長崎県の端島、あの『軍艦島』と呼ばれる光景を思い起こさずにはいられませんでした。 

ただその違いは、端島は長い長い年月をかけた風化による光景であるのに対し、ここはまさに一瞬でこの姿に至っているということ。


そこに共通するのは、生活感。 

散乱しているのは、教科書や辞書、パソコンや実習道具。
そこに、本来そこにあるはずもない木材や建材、さらには自動車までもが。 

こんな姿になるほんの少し前は、どことも変わらない、普通の高校の姿があったはず。 
それが、ほんの一瞬で。


生活感といえば、もうひとつ。 
ここからは少し離れたところに、「リアスアーク美術館」という美術館があります。 
ここには、震災の瓦礫の中にあった、生活用品などが展示されています。 



洗濯機、自転車、ぬいぐるみ、ファミコン、そしてトランペット。


今の私たちが震災の写真や映像で目にする、おびただしい量の瓦礫。
しかし、当たり前のことですが、それらは初めから瓦礫だったわけではなく。 
家や、船や、家電、家財道具、趣味のもの、大切な思い出の品。
その全てが、誰かの生活を構成していた大切な一要素であるということ。 


そんな当たり前のことに、いまさらながら気づかされます。 



「気仙沼市東日本大地震遺構・伝承館」では、語り部ガイドの方にお話をお伺いしました。 
小野寺さんはタクシーの運転手。これまでのテレビや新聞の取材などにも積極的に協力してこられた方です。



「あそこの家、津波に飲まれたときに十人くらいが屋根に上ったんだけど、それでも流されそうになってて。その時に偶然、アルミの梯子が流されてきたんだ。それでその人たちは協力し合って、屋根からその隣に生えてる欅の木にその梯子を立てかけ、全員でそれに上って津波に耐えたんだ。80歳近くの人までいたんだよ。」 


「一戸建ての2階部分が流されてきて、高校の建物に激突して、ひっかかってたんだ。
実はそこには人が二人中にいて。二人とも助かったんだよ」 


人間って、すごい。 


小野寺さんは、避難道の整備の大切さを強調します。 
今回、気仙沼向洋高校は確かに犠牲者は出ませんでした。しかし、それも偶然の結果だったという一面もあります。一歩判断が違っていれば、安全に避難できなかったかもしれない。 

気仙沼は非常に道路の狭い町。地震の直後も、避難する車の大渋滞で動けなくなったところが何か所もあったそうです。それも道路の流れを見れば、いざというときにボトルネックになることは明らかなのに、道幅を広げることもなく放置されていたのだと。 


「防潮堤なんか立てるより、避難道の整備の方がよっぽど大切なんだ。時間がたつと周りに建物ができて、道幅は広げられなくなる。今だからこそやるべきだし、今しかできない」 

小野寺さんはずっと行政と交渉し続け、最近になってやっとその工事が始まったといいます。 


この津波を語る上で、『想定外』という言葉がよく使われます。 

「東日本大震災で起きてしまった出来事で、人間の想像を超えた未知の出来事などほとんど起きていない。人類の長い歴史の中で、何度も経験してきたはずのことが繰り返されただけである。ならば想定できたのではないか。」

 「実際には想定できていたのだ。それをあえて想定から外していたのだ」 

リアス・アーク美術館に掲げられていた言葉が、胸に刺さります。 


今回の悲劇、生き残った者たちが将来に生かさなければ、亡くなった方たちが報われない。 

私たちにもできることが、やらねばならぬことが、きっとある。 



気仙沼の市内に戻り、祭を楽しみます。 

中でもびっくりしたのは、気仙沼の人たちの“和太鼓愛” 。




気仙沼みなとまつり名物、打ちばやし大競演。


 市内27の団体、老若男女の約800名が、一斉に太鼓を打ち鳴らします。 
地が響き、空気が揺れるようなその音色は、すさまじい迫力。

打ちひしがれるような苦難を乗り越えてきた、気仙沼の活力、心意気。 
これはぜひ、現地で感じていただきたいです。 


ほんとに、人間って、すごい。 


この後、この祭りのメインイベント、この800人の和太鼓と、打ち上げ花火との競演があったのですが、時間の関係でなくなくそちらは見られず。

いつか、ぜひそちらも見たいものです。


あの日から、8年が経ちました。

目を背けたいようなこと、背けててはいけないこと。

目の前に立ちはだかること、ぶつかること。

そして、それらすべてを現実として受け止めながら、元気に生活を送る人々。


やっぱり、人間って、すごい。



Ps.そんな、“人間ってすごい”って実感を感じながら気仙沼を後にし、レンタカーで再び一ノ関駅に戻る最中。
福島県沖を震源とする、最大震度5弱の地震が発生しました。 

地震の時、私は車に乗っていたので、揺れにはほとんど気づかなかったのですが、その後一ノ関駅で、ご覧の状態。 



結局東京駅に着いたのは0時20分過ぎ。自宅最寄りの大船駅にはたどり着けず、桜木町でホテルに泊まり、始発で帰宅。そのままとんぼがえりで出社という、ハードな一日を過ごしましたとさ。