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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.CHOPIN、5日間かけた書簡第2弾に隠されたメッセージとは

2019.08.06 14:02

ショパンは第2弾の書簡を書き始めてから何日目であろうか…

ルドヴィカの家族はワルシャワを離れて夏の間の避暑に行っているというのに、ルドヴィカはお金の問題でワルシャワに残っていたことをフレデリックは自分に1年前に会いに来たことが原因だと分かっていながらも、「共通の思い出ができたことを喜び、鉄道がまだ開通する前だとしても再会を約束しましょう」とルドヴィカと自分を励まし約束を誓った。

そして、不貞を働いたルドヴィカの夫のカラサンテに再び、釘をさす意味で書いたフレデリック、

「カラサンテは再び自分自身を傷つける必要があります。

収穫の時に出るダニにカラサンテは再び噛まれることになると思います。今年はそれほど多くありません。

だから、ダニはカラサンティを食べすぎた結果死ぬことを望みます。」

ダニとはカラサンテの不貞の相手の使用人の女のことで、フレデリックは秋の収穫のころまでにカラサンテが不倫相手の女と別れるようにと皮肉って書いた。フレデリックは比喩的表現をよくするのだ。

「あなたがいるワルシャワは暑いでしようが、僕の居るノアンもここのところ非常に暑かったのです。

今は雨が降ることが多く、農民は収穫が始まる前に天候が変化してほしいと待っています。今年は遅くなりましたが豊作です。

当地では、先週の日曜日は聖アンの日でした。(聖アンはマリアの母であり、イエスの祖母のこと)

このノアン村の守護聖人は聖アンです。

それぞれの家の前の庭のレイアウトが変わり、花と潅木(かんぼく・あるいは低木のこと)がたくさん植えられます。そして、教会の前にある芝生で村の人々がダンスを踊りました。

あなたはサルゼー(フランス中部)の田舎の祝祭を覚えているでしょう。

バグパイプの演奏や屋台もあり、村の人々はいろいろな種類のダンスを踊りました。思い出してみてください。」

低木のことは、もしかしたらクレマチスのことかもしれない。そして、サルゼー村(ノアンから馬車で30分程)ルドヴィカ夫妻がノアンに来たときにサルゼーへフレデリックとジョルジュ・サンドで遠足に行ったことがあったのだ。

サンドはその時の村で収集した話を小説に書いていて、この年に出版した(アンギボーのメニエ)。

しかし、フレデリックが言いたいことはサンドのことではない、ただ単に話題になる話を例に書いてサンドに読まれても怪しまれないように書いたが、実は言いたいことは違うところにあるフレデリックだった。ポーランドのクヤヴィのポモージェ県で踊ったマズルカのダンスのことコンスタンツェと一緒に過ごした共通のお祭りの記憶、教会で誓った指輪の交換のことを忘れはしていない共通の思い出。

コンスタンツェの慰めになるかわからないが、コンスタンツェが苦しいのなら教会へ行き、クレマチスの近くで身を休めるようにとフレデリックは話しているのだ。

いろいろな話を交えながら、ワルシャワの大事なひとへの隠されたメッセージを書いたフレデリック。そして、まだまだフレデリックの話は終わらなかった。5日間かかった書簡はまだ2日目あたりであったのだ。

コンスタンツェ・ゴドフスカ

フレデリックとコンスタンツェは1830年フレデリックがポーランドを去る前に教会で指輪を交換しました。その指輪はコンスタンツェは彼女の孫娘に渡したと言われている。

コンスタンツェとフレデリックが交わした手紙は残念ながら彼女が亡くなる前に燃やしたため残されていません。

1832年、コンスタンツェはオペラ歌手としての音楽キャリアの後、地主であるグラボウスキ氏と結婚しました 。コンスタンツェはポーランドの中部圏のラドゥチRaduczの不動産を購入しました。彼女は5人の子供がいました。しかし、彼らの幸せは長くは続きませんでした。ヨーゼフ・グラボウスキは農場の経営は破綻しました。そして、コンスタンツェは視力に問題を抱え始めました。多くの専門家に相談したにもかかわらず、彼女は1845年の35歳の時、視力を失いました。彼女はとても信心深かったため自らを罰とみなし、彼女は教会の近くで宗教性を著しく深めた生活をするようになりました。