俳句はコミュニケーション
暑中お見舞い申し上げます!!
https://jphaiku.jp/how/aisatu.html 【俳句は挨拶】 より
明治生まれの文芸評論家、山本健吉は俳句は表現の特質から、以下の三要素に集約できると言いました。
「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」
引用・『挨拶と滑稽』昭和23年 山本健吉
俳句は存門の詩と言われます。
聞き慣れない言葉ですが、存門とは、安否を問い、慰問するという意味です。つまり他人のところに出かけていって語りかけること、挨拶のことを意味します。
実は、松尾芭蕉の時代から、俳句は挨拶を第一にして作られる物だったのです。
この頃の俳句は、俳諧連歌の発句(最初の句)にあたる部分に該当します。
そして、発句はイコール挨拶句でもあります。
句会の場所で、招かれた客が主に対して挨拶として発句を作り、主が発句の句柄に対応した脇句(第二句)を返します。
例として、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の途中、最上川のほとりにある「一栄・高野平右衛門」宅の句会に招かれたときの「発句」と「脇句」を掲載します。
●発句
さみだれをあつめてすずしもがみ川
芭蕉
●脇句
岸にほたるを繋ぐ舟杭
一栄
この句会が開かれたのは、六月上旬の暑い時期で、芭蕉は旅の疲れを癒してくれた最上川の涼しさに感謝し、この景色を一望できる一栄宅を賛美しました。
これに対して、一栄は「いやいや我が家など、蛍を繋ぐための舟杭にすぎませんよ」と謙遜して答えています。
蛍とは芭蕉のことを指しており、解釈すると、「江戸の巨匠である芭蕉殿をお招きするために用意した家のようなものです」と、芭蕉を歓迎する意味になります。
たった、これだけの短い言葉のやりとりの中に、これだけの暗喩と意味を盛り込むとは、巨匠たちのやりとりは、さすがですね。
この発句は、松尾芭蕉の『奥の細道』に掲載されている「五月雨をあつめて早し最上川」の原形です。
芭蕉はこの後、最上川の水流の激しさは涼しいなどと呑気なことを言っていられるような状況ではなく、「早し」の方が適しているという考え、「奥の細道」に掲載する際には『五月雨をあつめて早し最上川』の形になりました。
この名句も最初は、一栄に対する挨拶として作られたものだったのですね。
高浜虚子は、『虚子俳話』の「存門」の章で次のように語っています
お寒うございます。お暑うございます。日常の存門が即ち俳句である。
引用・朝日新聞『虚子俳話』 昭和31年12月29日
俳諧は、庶民たちが交流して楽しむ日常の文芸でした。
その発句は、芭蕉と一栄の句のように、自然と挨拶の要素を含むことになったのです。
「挨拶には一期一会とか無常感といった思いが基礎にあるのではないかと思う。そんなに何回も会えるわけではない。ここで対面のするのもこれで最初で最後かもしれない。
人間に対しても風景に対しても。そうした一期一会の無常の思いをいだいていることによって挨拶ができる」
『NHK俳句』選者・矢島?男
参考・『俳句とめぐりあう幸せ』好本惠/著 リヨン社
これはテレビ番組『NHK俳句』の選者をしていた矢島?男(やじまなぎさお)さんの挨拶句についての言葉です。
芭蕉と一栄も一期一会の思いを込めて、句会に臨んだのでしょう。その心が後世に残る名句を生んだとも言えます。
また、挨拶句の中には慶弔贈答の句もあります。
友人や親族縁者、俳句の師弟などの相手に祝意や哀悼などを述べる句です。
これよりは恋や事業や水温む
これは高浜虚子が学校の卒業生に贈った句です。
彼らの明るい未来を祝福しています。
また、
たましひのたとへば秋のほたるかな
飯田蛇笏
これは芥川龍之介への哀悼を詠った句です。
「亡くなった人の魂が、秋の蛍のように儚く闇の中に消えてゆこうとしている」
という句意です。
こういった慶弔贈答の句には、前書きの一文が付き、第三者にもその意味が伝わるようになっています。
あらたまの年を重ねる猿茸(ましらだけ) 高資
年立ちて鼻高坐す猿茸 高資
濱窄神社(主祭神・天之御中主神)ー 場所: 五島市
きざはしは天へ産土神参(うぶすなまいり)かな 高資
宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社ー 場所: 二荒山神社
やどりぎの千年壽ぐ光かな 高資
初凪や常世へつづく島の影 高資
津多羅島(地元ではその島影からキューピー島と呼ばれています)
新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。ー 場所: 五島市
https://www.communication-energy.net/lab/0214 より
【コミュニケーションはあいさつから始まる】
あいさつは、いちばん簡単にできて、いちばん大切なコミュニケーションです。気持ちの良いあいさつをすると自分だけでなく、周りにもよい影響を与えることができます。
あいさつは真剣勝負?!
あいさつを漢字で書くと「挨拶」となります。この漢字は禅宗で禅問答を交わすときに、相手の悟りが深いものなのか浅いものなのかを探り合うやり取りをあらわした「一挨一拶(いちあいいちさつ、いちあいいっさつ)」という言葉からきています。
禅問答では、どちらかが言葉をなげかけ、もうかたほうが反応することで、相手がどんな悟りをえているのか、どの境地にいるのかを見定めあいます。この禅問答は、師と弟子や禅僧同士が出会ったときにはじまることが多かったため、時を経て、知り合いに会ったときに最初に交わす言葉や、初めて会う人と会話を始めるときに発する言葉を挨拶(あいさつ)と呼ぶようになったといわれています。
この禅問答は、いわば禅の世界で起こる戦いでした。挨拶の「挨」は「進む、押す、攻め込む」という意味です。また「拶」には「攻める、迫る」という意味があります。禅問答というものが、決して儀礼的で簡単なものではなく、禅僧同士の真剣勝負だったことが推測できます。刀こそないものの、お互いが心と心を通わせ、お互いを高めあうための修行であったのですね。
あいさつは心をひらく第一歩
では、現代においてあいさつはどんな意味を持つのでしょうか。家庭でも、学校でも、会社でも、あいさつは大切であるということを学んだ経験がある人は多いでしょう。では、どうして大切なのか?例えば「第一印象をよくするため」とか「マナー」の意味合いが強いように感じます。「あいさつとは一言でいうと?」と社内で問いかけたところ、いろいろな意見が出てきました。「習慣・慣例」という人もいれば「礼儀や尊敬、歓迎の意味もある」という意見、「強制的なもの」という経験がある人がいたり「体調確認」という意見を持っている人もいました。全て正解だと思います。あいさつという言葉はいろいろな意味を含んでいるんですね。実際に辞書を引いてみても表現が様々でした。
どの意味でも共通していることは、あいさつはコミュニケーションであるということです。そして、あいさつというコミュニケーションは、どんな人とでも交わすことができます。海外旅行にいくとき、おそらく多くの人が基本的なあいさつは勉強していくでしょう。それはなぜでしょう。コミュニケーションをとりたいと思うからではないでしょうか。あいさつをすることは、お互いの心をひらく第一歩なのです。
心をこめてあいさつしよう
あいさつは普段は無意識に行っていることがほとんどです。フレーズも非常に短いので、一瞬で終わることもあるかもしれません。例えば朝のあいさつで「おはようございます」というとき、あなたは相手のことを見ていますか?自分が先に言うときは見ているかもしれません。では、相手が先にあいさつしてきた場合はどうでしょう。相手のことを見て、返事を返すことができているでしょうか。
コンビニエンスストアやスーパーに行ったとき、「いらっしゃいませ」と言われることもあると思います。そこに答えることはないかもしれません。でも「いらっしゃいませ」も立派なあいさつです。でもそこに心がこもっていなければ、して当たり前、の単なる作業になってしまうのです。言うほうも言われるほうも、素通りするようなあいさつはなんとなく寂しい感じがしますね。よいコミュニケーションは、一言のあいさつから。意識して、目の前の相手に(電話なら電話口の相手に)まるで禅問答をはじめる修行中の仲間のように、心をこめてあいさつしてみましょう!そこから良いコミュニケーションが生まれてくるのです。
口にして二人ほほゑむ一位の実 高資
寄り添ひて零れず紫式部の実 高資ー 場所: 宇都宮
おほなむち兎へ光手向けたり 高資ー 場所: 出雲大社