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KANGE's log

映画「存在のない子供たち」

2019.08.08 13:42

「レバノンの12歳の少年が、自分を生んだ罪で両親を訴える」という、この一文だけでも興味をそそられる映画。目を逸らしたくなるような悲惨な状況を、「絶対に見逃すな」と言わんばかりの力のある映画でした。裁判所のシーンから始まり「なぜ、そんなことになったのか」が物語として語られます。

これがフィクションであることが、まずは救いなのですが、綿密なリサーチと、演じているキャストが皆、役柄と同じような境遇の一般人ということで、「事実に基づくフィクション」ではないけど、「現実に基づくフィクション」と言えるのではないでしょうか。

この「自分を生んだ罪」には、2つの意味があると思います。1つは「育てられないのに生んだ罪」で、ストレートに両親への訴えです。もう1つは「こんな社会に生んだ罪」で、これは両親ばかりを責めるわけにはいきません。

そして、監督自身が少年の弁護士を演じているのですから、この映画そのものが告訴状ということですね。映画内では、両親が訴えられているわけですが、それを映画として世に問うということは、世界に対しての告訴状ということでしょう。

主人公ゼインは、学校にも行かせてもらえず、雑貨店の配達などの手伝い、兄弟で路上でのお手製ドリンクの販売、違法に入手した薬品(ドラッグ)を水に溶かし衣服に染み込ませて差し入れとして服役囚に売るような商売までしています。

ゼインは、聡明な男の子で、妹に生理が始まったことに気づくと、それによって彼女がどんな境遇になるかを瞬時に理解し、初潮を迎えたことを隠し通すように促します。12歳でそんな判断ができるほど、酷いことをこれまでに見てきたということですよね。

それでも、親の愛に恵まれていれば、貧しくもたくましい生活として見ていられるわけですが、その妹の初潮から、ドラマはどんどん厳しい方向に進んでしまうのです。 

あることがきっかけで、家出することになったゼインは、偶然、自分と同じく難民のラヒルとヨナス母子と擬似家族のような関係性を築くことになります。しかし、その擬似母さえも引き離されてしまいます。ヨナスはまだ赤ん坊です。自分が生き残るために、足手まといの赤ん坊は放っておいても、誰も彼を責めることはできないでしょう。彼の清さ、優しさもあるでしょうが、「それをやっては、両親と同じことになってしまう」という思いもあったのかもしれません。ゼインとヨナスの生活が始まります。 

皮肉なのは、家を出た後、なんとか彼が生き延びていくのは、両親と一緒の頃に学んだ、生き抜く知恵(犯罪的な行為も含めて)のおかげだというところ。「万引き家族」で、父・治が「俺には万引きぐらいしか教えられることがない」と言っていたのを思い出します。でも、それでは、今の生活を脱出することはできないんですよね。

このヨナスが、やたらめったら、かわいいのです。赤ん坊ですから演技をしているわけではないのでしょうが、見事な表情、仕草を見せてくれます。きっと、何度もテイクを重ねたり、ご機嫌になるのをずっと待っていたりしたんでしょうね。

そして、本作の怖さの一つは、そんな過酷な状況にいる子供たちを、周りの人間が一切気にとめることがないということ。道端や市場で12歳の子供が赤ん坊を連れ歩いていても、それが日常の風景として流れていくということ。つまり、彼のような子供は特別ではないということが、ここで語られているわけです。

気になったのは、ゼインが妹に対して、兄妹愛以上の気持ちを持っているのではないかと思わせるシーンがあったこと。寄り添いあう2人は、明らかに恋人のそれ。うがちすぎかもしれませんが、この映画に必要だったかな?と思いました。

この映画を見て「貧富の差が広まったとはいえ、まだ日本はここまでではない」と思わないほうがいいと思います。日本にも無戸籍の人が1万人以上いるという話もあったりします。