1350年前の石敷き
8月9日付の大阪の新聞各紙の1面を飾った飛鳥京跡苑池遺跡の現地説明会が、10日朝からありました。照りつける太陽の下、飛鳥駅からかめバスに乗って行ってきました。
7世紀半ば、斉明天皇が祭祀を行った跡を示唆するような大発見で、現地説明会も混雑するだろうなあと思っていたのですが、あまりの暑さに外出を控える人が多かったのか、やや拍子抜け。それでも相当ご高齢の方を含め、多くの人が本物の1350年前の石敷きを目にして、感嘆の声を上げていました。
飛鳥川のすぐ東側に位置する苑池は北池と南池があって、南池はすでに発掘が済み、日本最古の庭園と呼べるような石造物も見つかっています。今回発掘された北池は、観賞するというより、まつりの場としての性格が強いようです。
北東の突出部にある石の枡には、いまも湧き続けている清水が溜められ、その水はもう一つの石枡を経て、東西に走る石組みの溝へ流れていきます。溝の底にははっきり色がちがう砂岩が敷かれ、その両側には40〜70センチ大の石が整然と敷き詰められているのです。時代的には、石枡やその北側の階段状遺構の方が古く、溝と石敷きの部分は7世紀末に改修されたのでは、ということです。
ここで斉明帝がみそぎをしたのか、それとも別の儀礼が行われたのか、想像は膨らみます。それにしても、1300年以上も前に作られた遺構を目の前にするのは、ドキドキ感がありますね。
調査員さんに聞くと、苑池は平安時代までは修復や管理がなされたらしく、平安期の土器も出土したそうです。その後はいつか池も埋められ、田んぼになっていました。ずっと地中に眠っていたからこそ、こんな整然とした姿で再び太陽の下に出てきたわけです。
一連の調査が済めば遺構は埋め戻され、生で見ることはできなくなります。苑池全体を復元公園として整備する計画があるようですが、やっぱり本物は喚起力がすごいです。
苑池から歩いて10分ほどのところには、中大兄皇子が漏刻という時計を作ったと推測される水落遺跡があり、すぐ近くに犬養孝さん揮毫の万葉歌碑があります。
今日もかも明日香の川の夕さらず 河蝦(かはづ)鳴く瀬の清(さや)けかるらむ
吉野と大和国中を隔てる山々から流れる飛鳥川、そのすぐそばで古代から湧き続けている苑池の水。その水を石敷きによって「清けく」保つことが、苑池での祭祀に不可欠であり、斉明帝の霊性を支えていたと考えられます。「水と石のまつり」の場であった飛鳥は、やがて唐文化で設計された藤原や平城の都にその地位を譲り、のどかな明日香村の田園風景へ埋没していきます。