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ダンス評.com

木野彩子 レクチャーパフォーマンス「ダンスハ體育ナリ?其ノ二 建国体操ヲ踊ッテミタ」早稲田小劇場どらま館

2019.08.10 16:49

「ダンスハ體育ナリ?其ノ二 建国体操ヲ踊ッテミタ」は、早稲田小劇場どらま館企画「憲法と身体」のイベントとして上演された(協力:NPO法人ダンスアーカイヴ構想)。「憲法と身体」企画立案者は、早稲田大学文学学術院教授の水谷八也氏。

初演は2018年2月11日に明治神宮外苑で行われ、今回は早稲田バージョンとして上演された。

急遽、プレイベントとして上演前に会場の劇場周辺で実施された「ツアー」では、レクチャーで言及される早稲田大学の施設などを、バスガイドの格好をした木野氏の案内で見て回った。

ダンサー・振付家の木野氏は、中学・高校で保健体育を教えた後、渡仏してRussell Maliphant Companyでダンサーとして踊り、帰国後は、筑波大学人間総合科学研究科スポーツプロモーションコースを修了し、現在は鳥取大学地域学部附属芸術文化センター講師として勤務しながら、ダンス作品を発表している。

上演は、下記の構成で、木野氏がスライドを見せながら、戦中の「体操」「ダンス」についての授業を行い、所々で当時の体操を実演し、憲法やオリンピックにも触れながら、戦中と現代の日本社会を比較するというもの。最後は、現在の日本社会や身体の在り方に危機感を表現するダンスで締めくくられた。


(1) 初演時のおさらい

(2) 1940年の幻のオリンピック

(3) オリンピックの中止と体操熱の高まり

(4) 「建国体操」「日本体操」「石井式舞踊体操」

(5) ダンスの制限と禁止

(6) オリンピックと日本

(7) 私たちの国では


1940年に東京オリンピックが開催される予定だったが、戦争のため開催されないことになり、一般の国民の体操が奨励されることになったのだという。そして、体操は、国民(当時は「臣民」か)を画一化し、統制し、管理し、従わせるための道具として国家に利用されていった。古事記などを基にしているという「日本体操」(「やまとはたらき」と読む)は動きだけでなく言葉を話すところも多くあり、寝起きに行うとされた女性専用の「石井式舞踊体操」はヨガのポーズのような動きが入っていてどことなくなまめかしい。突っ込みどころ満載だが、笑ってもいられない。

現在の日本の学校教育では、ダンスは芸術ではなく体育としてカリキュラムに組み込まれている。「リズムに合わせて楽しく体を動かす」ことが目的とされ、授業で行われているダンスは、多くが、「教えやすく」「評価しやすい」ヒップホップなどである。しかも日本では、ストリートダンスが、個性を発揮する個人の踊りではなく、みんなで動きを合わせて踊る集団的な踊りとして広まっている。ダンスのコンクールで勝敗が競われ、ブレイクダンスがオリンピック種目になりそうということで、スポーツのようにもなってしまっている。こういったことが公演では提示された。

ダンスと体操の関係を考える中で、最近の日本では「ダンスの体操化」が進んでいる、といのことだった。これはとても恐ろしいことだが、ヒップホップの流行やアイドルたちのダンスや登美丘高校ダンス部といった「ダンス」に私が最近感じていた、「あれはダンスではない」という違和感、反発、嫌悪と、残念ながら合致する。そうか、あれは、決められた振付をみんなで同じように一糸乱れず実行する「体操」だったのか。

「建国体操」の「前奏」の動きを、木野氏に教わりながら観客も実際に行ったのだが、そのときに感じたなんとも嫌な感じは、小学校に通い始めたときから抱いていた「嫌な感じ」と同じだった。真っすぐに「整列」させられ(「前へならえ」なんて、軍隊以外の何物でもない)、掛け声に合わせて一斉に動かされ、「だらりとせずピシッと」しなさいと命じられ、「なぜこれをしなければならないのか?」と問うことは一切許されない、学校の世界。学校とは、教育とは、自分の頭で考えたり他の人と違うことをしたりするのを禁じることで、命令された通りに動く人間を大量生産する場なのだ、と子どものころから思っていた。「民主主義」を教えながら、学校は全然「民主主義」じゃない、と思っていた。今もそう思っている。

学校の軍国主義的な面が顕著に表れた体育の授業は、大大大大大大大大嫌いだった。強制される体育座り(三角座り)も屈辱的で、最近、竹内敏晴氏の本で、体育座りは体を緊張させて縮こませ、管理される体を作る姿勢、と読んで以来特に、その体勢は取らないようにしている。当時、バレエを見るのは好きで、するのは苦痛でもあったがレッスンに通っていたのに、学校の体育のフォークダンスや「創作ダンス」やエアロビクスはほぼ苦痛でしかなかった。やはり自分はダンスには向いていないと思っただけだった。現在の体育の授業で行われているヒップホップなどのダンスも、やはり「ダンス嫌い」を増やしているのだという。私のように、運動神経もリズム感もなく、振りも覚えられない人にとっては、最悪の時間だろう。大人になってコンテンポラリーダンスに出合わなければ、私ももしかしたら、バレエやリズムダンスのようなものだけがダンスなのだと一生思い込んでいたかもしれない。

一方で、リズムに乗って一斉に動く「ダンス」が得意で好きな人は、そういうものこそがダンスで、それ以外のものはダンスではないと思っているのだそうだ。木野氏は学生に、「先生がやっているのはダンスじゃないから、別の名称で呼んでください」と言われたことさえあるのだという。

アフタートークでは、木野氏、高校の表現コミュニケーションコース教諭であるドラマティーチャーいしいみちこ氏、早稲田大学大学院に在籍する司会の呉宮百合香氏から、上記のような話が出た。

では、個性的で自由で、社会を破壊する力を持つダンスを踊り、自分で考えるしなやかな身体を獲得するためにはどうしたらいいかについては、教員の意識を変える、アーティストと学校の橋渡しをするコーディネーターの協力を得てアーティストをもっと学校に派遣する、といった提案が成された。

スポーツの「応援団」なども、戦中の体操に近いものがあるというのもよく分かる。しかし、あれを「一体感」などという言葉で称賛し、喜んでやる人たちがいる。学校の現場では、「正しい」と言われたことを一途に信じ込み、「無駄なこと」は一切せず、「効率の良さ」を追求する若者の姿があるという。それは、学校教育によって、大人が押し付けてきたものなのだと思う。

木野氏はレクチャーで、自民党の憲法修正案にある表現の自由や検閲に着目した。その案は「公益や公の秩序に反しない限り、表現の自由を認める」というもので、つまり、時の政権が、何が「正しい」のかを規定することができるようになってしまう。しかし、「正しさ」や「美しさ」は一つではなく、いろんな「正しさ」「美しさ」が存在するのが民主主義のはずで、秩序を壊す力のある芸術が、新しい社会を生み出すエネルギーにもなってきたと木野氏は語る。そう、「間違っている」「醜い」のも、見方によって異なるし、「醜い」からこそいいのだ、という考え方だってあり得る。木野氏が最後のダンスで果汁を滴らせたレモンの香りとともに、このままではいけないという刺激が体に染み込む。

木野氏は、「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」の展示中止に見られるように、(公的な)助成金をもらって制作活動することの危うさについても語っていた。だが、もちろん助成金なしで採算が取れるようにできればいいのだろうが、それとは別に、公的な助成金であっても、表現者の表現の自由は守られなければいけないのではないだろうか。そして、それを守るのは国民の責務だ。公的な助成金の財源は税金であろうし、政治家を選ぶのは(今はまだ)国民だ。もっと言えば、税金はいわゆる日本国民以外の人も払っているが、日本国籍のない人は選挙に行くことができない。その人たちの存在も認める選択を、選挙権のある私はしたいと考える。

しかし、国民が今の政治家たちを選び、「表現の不自由展・その後」を政治家たちと一緒になって中止に追いやったのを見ると、そして、今の状況と戦中の状況が近いのだとしたら、国民は政治家のいいようにされているということになるだろう。

主権や自由を私たちの体に取り戻すために、何ができるのか?「憲法と身体」の企画全体を通して、このことを深く考えさせられた。

木野氏の公演で配布された冊子に書いてある同氏の言葉「音楽に合わせて踊る身体運動としてのダンスと創造性に基づくダンスは全く異なる視野にあるものではないか。そして前者はすでに体操と呼ぶべきものではないか」は、「ダンスとは何だろう」と常に考えている私にとって、大きなヒントとなった。

ちなみに、同じ冊子に書いてある「現在でも一部の女子高に残されているという明治期に輸入されたダンス『ファウスト』」について、そのダンスが躍られている学校を知っていたので、驚いた(「元女子高」にも残っているようです)。


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2019年8月10日(日)19時

一般2000円、学生1000円

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