Okinawa 沖縄の旅 Day 10 (11/08/19) Fukushuen 福州園
Remains of Ryukyu Government Legislative House 琉球政府立法院跡
Okinawa Prefecture Hall 沖縄県庁
Naha City Hall 那覇市庁舎
Former Naha City Office 那覇役所跡
Former Izumisaki Bridge 旧泉崎橋跡
Former Shiseibyo/Meirindo 至聖廟跡/明倫堂
Restored Confucius Shrine 孔子廟
Former Shiseibyo, Tensonbyo & Tenpigu 旧久米至聖廟 天尊廟 天妃宮
600th Year Memorial of Kume Village 久米村発祥の地
Grave of Tokashiki Sanraa 渡嘉敷三良の墓
Grave of Cho Ken Ko 張献功の墓
Lower Tempigu 下の天妃宮跡 / Tenshikan Remains 天使堂跡 / Naha Sotonushi Office 那覇里主所
Former Chujindo, Doyasiki 忠盡堂、堂屋敷跡
Kuminda Great Gate 久米村大門
Fukushuen 福州園
Yuchinusachi 雪の崎跡
Naminouegu Shrine 波上宮
Gokokuji Temple 護国寺
Tojoji Temple (Dougua Residence) 東寿寺跡 (堂小屋敷跡)
Daitenji Temple 大典寺
Kozakura Memorial Tower 小桜の塔
Doragon Pillars 龍柱
昨日まで3日間は台風9号の影響で天候が不安定で大雨強風が多かったが、今日は台風も過ぎ去り、晴天で一日中雨が降らなかった。雨が降らなかった日は沖縄に来て今日が初めてだ。やっと、沖縄も歴史探索に出かけられる。もう既に沖縄に来て10日が過ぎた。この10日間は前半は土肥さんと一緒で、地方活性化プロジェクトの手伝いに集中し、後半は台風で足止め。無理をしなかったので、足首の方は少しづつ良くはなって来ている。ただまだ無理は禁物。今日はほぼ平坦な那覇市内にとどめる。
Remains of Ryukyu Government Legislative House 琉球政府立法院跡
政治問題もあるのだろうが、案内板はさらりと説明しているが、これには複雑な背景があると推測するのが自然だろう。アメリカが戦後、沖縄と奄美大島を鹿児島から切り離して統治したには、その時には大義名分があった。日本の帝国主義の圧政下にあった少数民族の解放だ。アメリカは将来の琉球の独立国家構想があった。これにより、明治時代に琉球独立運動がほぼ消滅していたが、沖縄の人たちに独立の期待が生まれた。歴史を見てみると、ペリーは日本と和親条約を結んだ後、沖縄に寄港し、当時の琉球国と琉米修好条約を結んでいる。アメリカはこの時点で琉球国は独立国家として認識していた。明治政府により明治12年に琉球処分で琉球王国が滅亡し、沖縄県になった事は米国は日本の侵略行為と見ていた。その認識が第二次世界大戦後にも生きていた。しかし、沖縄の人々にとって米国は救世主ではなかった事に気づき、考えが変わっていく。それは米国が少数民族の解放と言う理想主義から、沖縄を中国、ロシアの脅威に対する軍事基地として見始め、沖縄をコントロールする重要性が高まって来た。基地の拡大で沖縄の人々にも不信感が生まれ、日本への復帰の世論が強くなり、沖縄変換時には、沖縄独立を求める声は少数派になっていた。ただ、今でも日本の仕組みの中で、道州制により沖縄の自治権を求める声はある。(未だ少数派かもしれないが)
Wikipedia に掲載されていた沖縄県民へのアンケート結果は以下の通り。独立派が減って来て、自治権派に変わって来ていることがわかる。
Okinawa Prefecture Hall 沖縄県庁、Naha City Hall 那覇市庁舎
琉球政府立法院跡には沖縄県庁が、そして沖縄県庁の隣には那覇市庁舎が建っている。那覇市庁舎はユニークな作りで、初めは高級マンションかと思った。入り口にはやはりシーサーが門番をしている。
Former Naha City Office 那覇役所跡
那覇市庁舎から250m離れた久茂地川 (くもじがわ) のほとりには那覇役所跡がある。案内板によると、琉球王国時代には那覇四町 (なはゆまち) [東村、西村、若桜町村、泉崎村]を統括する顔見世が役所としてこの地にあった。明治12年の琉球処分で沖縄県となった時に、久米村、久茂地村、泊村も含めて7町を統括する顔見世役所となり、翌年那覇役所と改名された。明治26年に那覇役所が (この後訪問するのだが) 東村の天使館跡に移転し、ここは戦争で焼け野原になるまでは琉球新報の印刷所としての使われた。
1700年頃の那覇近辺。今はかなり埋め立てられていてかなり変わっている。那覇は先ずはオレンジ色の那覇四町 (なはゆまち) でスタート (小さかった、まだ首里は那覇ではなかった)、後に久米村、泊村が追加された。那覇は陸地から離れた島で浮島と呼ばれていた。今では市内を走っても島であったような雰囲気は無くなっている。
Former Izumisaki Bridge 旧泉崎橋跡
この近く数十メートル先に旧泉崎橋跡があった。先に紹介した那覇四町 (なはゆまち) の泉崎村はこの付近だったのだろう。この橋は葛飾北斎の琉球八景に描かれている。この橋で旧那覇は沖縄本島と結ばれていた。
この橋を渡ると久米村に入る。久米村の話はこれから史跡跡を巡りながらみていく。久米村の風景が北斎の琉球八景に描かれている。
Shiseibyo/Meirindo 至聖廟跡/明倫堂
この橋の久茂地川と反対側の国道58号線を渡ると孔子廟跡がある。17世紀初頭より久米三十六姓の人々によって儒教の祭典が行われていたが、1676年 (尚貞王) にこの地に建立された。康熙57年 (1718年) に程順則名護親方の建議により孔子廟境内に琉球における最初の正式な教育機関である明倫堂創建された。ここでは官話のほか経書の講解、詩文や表奏文などの外交文書の作成教授など上級教育を行い、それまで教育の場であった上天妃宮 (この後に訪問) では北京官話や小学の素読など初等教育を行うようになった。明治期まで学校として機能するが、その後廃止され沖縄戦で焼失。
Restored Confucius Shrine 孔子廟
この跡地から数百メートル離れた場所 (福州園の裏) にこの孔子廟が復元され、久米崇聖会によって管理されている。ここには明倫館と看板を出したコミュニティセンターも併設されて、地域の集会場として使われている。ここではここの管理人さんと立ち話をしたのだが、ここへは2013年に天尊廟跡地に復元されていたものをここに移してきた。本当は元の場所に復元したかったが、当時はまだ米軍がその地域を管理していたので、それはかなわなかったと言っていた。
大成殿
昔の孔子廟
Former Shiseibyo, Tensonbyo & Tenpigu 旧久米至聖廟 天尊廟 天妃宮
前述の移設された孔子廟はここに復元されていた。元々は天尊廟があった場所。現在は3つの建物があるが、どれがどれなのかがはっきりしないが、入って左手前の二つの建物は、あるサイトには手前が天尊廟で後ろはには天妃宮 (航海安全の守護神である媽祖を祀る) と載っていた。では正面の建物は何かははっきりしない。案内板もよくわからない。この左の二つの建物は老朽化が激しく、閉鎖されており、4体の道教の神様像は正面の建物に集約されている。旧孔子廟と同じく天妃宮もここに復元されたもので、琉球王府の時代は「上の天妃宮」「下の天妃宮」と二つに分かれて別の場所にあった。この後訪れる事になる。
ここには久米村 (クニンダ) が輩出した二名の賢人の頌徳碑がある。そしてもう一つがこの裏にある旭ヶ丘公園にある。おいおいこの人物にはそのゆかりの地で詳しく調べてみる事にする。
蔡温 (1682-1762)
程順則 (1663-1735)
先に触れた明倫館はこの程順則の建議により康熙57年 (1718年) に始まった。
鄭迵 (1549-1611)
今、NHKドラマの琉球の風を見ている。陳舜臣の原作を1993年にドラマ化したものだ。豊臣秀吉から徳川家康の時代に、薩摩の琉球侵攻に対して琉球の苦悩を描いている。この謝名親方 (じゃなうぃかた) の鄭迵は久米村出身者では初めて三司官 (大臣に相当する) に就任し、薩摩からの起請文に最後まで署名を拒み、薩摩で処刑された人物。ドラマではもう一人の浦添親方が署名を拒んだが、処刑は自分だけで良いとしての浦添親方は涙を呑んで署名した。琉球人には誇りがある事を後世に残したかったとしている。彼の思い通りに鄭迵はここ沖縄の住民には今でも誇りとなっている。このドラマの映像は古く決して出来が良いわけではないが、当時の琉球のそれぞれの階層の人たちの苦悩とそれにどう向き合って来たかを表している。全てが真実ではないだろうが、沖縄を理解する上では観る価値がある。
600th Year Memorial of Kume Village 久米村発祥の地
久米村 (くみんだ) は今まわっている地区で、この後福州園に行くのだが、そのすぐ前の松山公園に久米村発祥の地の記念碑が立っている。ここはもう那覇の港の直ぐそばだ。この久米村に多くの福建人 (閩人 びんじん) が住み始めたのは明皇帝から琉球に対して福建の技術者を提供された事に始まる。久米村人 (くみんだちゅ) と呼ばれた。琉球の歴史を追いかけていると当時の明の外交政策が見えてくる。漠然と持っている中国のイメージが変わってくる。明国だけでなくて、歴代の中国大陸の皇帝は琉球を攻めたことはない。朝貢によって明グループに参加しさえすれば良しとした。だからこそ、琉球人も明から戦争を仕掛けられるとは思いもしていなかっただろう。(実際のところ、明は国内を安定に精一杯で海外の事は余裕もなかった。) それが理由で、琉球は三山時代から統一国家になってから強力な軍隊を持つ必要もなく、貿易で国を運営していた。日本は戦争放棄と今は言っているが、琉球国は無意識に戦争をすると言う概念は全くなかった。国内の戦争はあったが、他国からの侵略や、領土拡大の戦争を仕掛けたこともない。民は貧しかったが、ある意味で平和な国であった。薩摩侵攻が琉球が初めて経験する侵略だった。先に触れた鄭迵の発言を受け琉球王も戦争を決意したが、首里城はわずか10日で薩摩の手に落ちた。
那覇にはこの久米三十六姓の人々の墓が残っている。
Grave of Tokashiki Sanraa 渡嘉敷三良の墓 (8月12日に訪問)
16世紀に中国から琉球にやってきた瓦工 (ガコウ、瓦職人) 彼は瓦工の祖として唐大主 (とぅうふしゅ) と呼ばれ尊敬されていた。彼の子孫が首里グスクの正殿の瓦葺きを行ったと言われている。墓は美栄橋駅の近くの緑ヶ丘公園内にあり、自然洞窟を利用した利用した洞穴墓や岩盤を加工した掘抜墓(フィンチャー)になっている。公園の石垣は多くの小さな穴が空いている。戦争の銃弾跡なのだろうか?
Grave of Cho Ken Ko 張献功の墓 (8月12日に訪問)
公園の端にもう一つ墓がある。張献功は福建人では無いが、琉球に帰化した朝鮮陶工。和名は仲地麗伸 (なかちれいしん ) といい、秀吉が朝鮮を侵略した文禄 慶長の役で朝鮮から連れ帰った。九州の唐津や伊万里にが陶器/磁器が発達するのは滅びた百済国から多くの優秀な職人を連れてきたからだ。彼は薩摩の島津義弘軍に連れて来られた43人の陶工の一人で、琉球王朝の依頼で彼を含め3人の陶工が琉球へ派遣された。張献功はそのまま琉球に残り湧田窯 (上焼きという釉薬をかけた焼物) の創始者となる。後に湧田窯も壺屋に移転し発展して行く。現在も張献功の子孫清明祭を行っているという。
Upper Tempigu 上の天妃宮
旧久米至聖廟には天妃宮が復元されていたが、琉球王国時代にはここに上の天妃宮があり少し離れたところに下の天妃宮があった。
Lower Tempigu 下の天妃宮跡 / Tenshikan Remains 天使堂跡 / Naha Sotonushi Office 那覇里主所
右が下天妃宮があった場所で今は郵便局になっている。左が天使館のあったところ。(それぞれの解説は上の案内板を参照)
Former Chujindo, Doyasiki 忠盡堂、堂屋敷跡
忠盡堂は久米村の蔡氏一門の位牌を祀っていた堂で、その周りには蔡氏一門の生活困窮者の保護施設として堂屋敷があった。
Kuminda Great Gate 久米村大門
久茂地川の川向こうが泉崎村でそこからこちらに旧泉崎橋を渡ったところから久米村が始まる。その入り口に大門があった。今はそこから海岸まで久米大通り (当時は久米村大道) が走っている。当時の道幅は今よりも狭かったのだろうが、同じように道が走っていただろう。この道沿いに数々の史跡がある。
地図で現在地となっている所が大門で久米大通りの端が西武門。この大通りを龍に見立て、尻尾が西武門、頭が大門。久茂地川を渡ったところに仲島の大石 (バスターミナルのところにある。後日訪問)を龍玉と見なしていた。
Fukushuen Garden 福州園
福州園は歴史的建造物では無いのだが、中国福州市と那覇市の友好都市10周年記念事業として5年の建設期間を経て1992年に完成開園した庭園で、福州市にある名所を凝縮して、福州が設計をした。
何故、福州なのかと言うと、福州からこの地に14世紀後半に海を渡って来た渡来人が久米村 (くみんだ) に住み着いて集落を作った。その渡来人たちは久米三十六姓 (沢山いたので三十六と表現されていて36しかいなかった訳ではない) と呼ばれ、中国との貿易や当時の東南アジア諸国との貿易を行い、琉球王国の大交易時代を支えた。久米町には福州からの渡来人の子孫が代々住んでいた。琉球の文化が中国の影響を色濃く残しているのはこれが理由だ。那覇には中国式庭園がもう一つある。識名園で、これは遠く異国から来ている渡来人や冊封使などを慰めるために、琉球王朝が造ったものだ。後日そこにも行く予定だ。
福州園の隣に資料館兼レストランンのクニンダテラスがあり、映像で久米村の歴史を紹介していた。
今日は、久米村に関わる史跡を巡ったがこれ以外にも数カ所訪れた。以下の簡単に紹介しておく。まずは宗教関係施設から。
Yuchinusachi 雪之崎跡
ここは昔は岬の橋で、拝みの場所とされてきた。見学している最中にも、那覇の住民が訪れ拝んでいっていた。
Naminouegu Shrine 波上宮
琉球八社の一つで、琉球国の一の宮。住民からは「なんみんさん」「ナンミン」として親しまれている。察度王 (初代中山王) の御代、護国寺が開山した時期(貞治7年、1368年)に創建されたのではないかと推測されている。太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)の沖縄戦の中で鳥居を残し全てが灰燼に帰した。昭和36年(1961年)に再建が完了した。一宮にしては規模が小さく感じた。沖縄では神道や仏教は人気がないので、氏子数自体も少ないのだろう。沖縄らしく、狛犬はシーサーになっている。神社では少し異なるのだが.... 狛犬と獅子のペアが通常。
波の上ビーチが神社のすぐ側にある。水は綺麗だ。工場などが無いからだろうか?
Gokokuji Temple 護国寺
コンクリートで出来た寺。本土の寺の造りとは少し違う。琉球の建物と同じく屋根の傾斜が緩やかになっている。瓦も琉球様式で、異国情緒が出ている。神仏習合の時代に造られた。上で説明した波上宮と同時期の創建と推測される。
Tojoji Temple (Dougua Residence) 東寿寺跡 (堂小屋敷跡)
福州園のすぐ近くにこの護国寺の末寺であり、堂小と呼ばれていた。寺の側にあった屋敷を堂小屋敷と呼んでいた。堂小屋敷は久米村に住んでいた人々を経済的苦境から救済するための施設であった。
Daitenji Temple 大典寺
ここもコンクリートの寺院で、戦争の犠牲者の女学生の慰霊碑がある。沖縄戦も掘り下げたいテーマの一つだ。日本で本格的な陸上戦が行われたのはこの沖縄だけだ。最も戦争の恐ろしさを体験したのが沖縄住民だった。広島、長崎も悲惨だが、敵兵が武器を持って襲ってくる怖さは沖縄の人しかわからない。もっと広く取り上げるべきだ。
Kozakura Memorial Tower 小桜の塔
ここにも戦争の悲劇。沖縄から疎開すべく学童が船で沖縄を離れたが、その航行中に米軍の攻撃を受け沈没多くの犠牲者が出た。小桜の塔は沈没した対馬丸の犠牲者の慰霊塔でそれ以外の沈没船の犠牲者の慰霊碑がなくなった我が子を抱く母の像が立っているところにある。この対馬丸の惨事はよく知られており、公園内に対馬丸記念館も建てられている。
公園内には多くのガジュマルの木が生息している。それに大きい。
Doragon Pillars 龍柱
2015年に那覇市の若狭海浜公園に建造された。ここは港からすぐそばのところにあり、港には大型クルーズ船が寄港し、乗客はまずこの龍柱が目に入る。この龍柱は多くの論議を巻き起こした。
この龍の爪が4本であり、5本爪は宗国の歴代中国王朝しか使えなかった経緯から、まだ中国を敬うのかと批判。これはちょっと言いがかり的なものだが、もう一つは少し問題。総工費2億6千万円。原資は一括交付金と那覇市民の税金。工事は福建省の業者に一括発注で3億円を超えた。これには那覇市民は頭にきて、建設反対運動が起こり、工期がどんどん遅れた。那覇市は中断すると交付金返還しないといけないからか続行を決めた。こちらの観光パンフレットにも載っていない穴場? 那覇市としては観光案内に載せられ無い事情がある様だ。建設当時はシンガポールのマーライオンの様に観光名所を目論んだが、やり方がお粗末で、結局観光の目玉にはならなかった。市民をなめた結果だ。