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粋なカエサル

「ミケランジェロとシスティーナ礼拝堂天井画」3 ラファエロ

2019.08.15 01:01

 自称ミケランジェロの弟子であり、ミケランジェロを直接知っていた人物がその時代に書いた伝記『ミケランジェロ伝』(ミケランジェロが78歳の時に出版)の著者アスカニオ・コンディヴィ。彼は、ユリウス2世が当初の自分の墓廟の計画を中止しシスティーナ礼拝堂の天井画をミケランジェロにやらせようとした経緯を、1503年からサン・ピエトロ大聖堂の建築主任についていたブラマンテの陰謀だったと記している。その概略はこうだ。

 ブラマンテは教皇ユリウス2世がことのほかミケランジェロを気に入っていることに嫉妬していた。しかも、ブラマンテはサン・ピエトロ大聖堂再建の仕事を請け負った際、建築資材や工程で手抜きをして利鞘を得ていたが、ミケランジェロがいつかきっとそれを見抜き、教皇に告げ口するのだはないかと恐れていた。かれは、ミケランジェロを教皇から引き離したかった。そのためにまず、生前に墓廟を建設することは不吉だと告げる。そしてかわりに、システィーナ礼拝堂天井画の仕事を担当させる。ミケランジェロは彫刻家でありフレスコ画制作の経験もなく、失敗に終わるに違いないと企む。その上で、新しい天井画制作を同じウルビーノ出身の若き画家(ブラマンテの遠縁ではないかと考えられている)に請け負わせようとした。ラファエロである。

 これは全く可能性のなかった話ではない。ローマから逃走したミケランジェロがユリウスと和解し、天井画の制作を開始したのは1508年5月10日。そして完成させたのが1512年11月1日。他方、ユリウス2世の招きで(おそらくブラマンテの推挙)ラファエロがローマに居を移したのは1508年の暮れ。そして教皇の求めに応じて、ヴァチカン宮殿の「署名の間」に現在においてもラファエロの最高傑作とみなされている『アテナイの学堂』、『パルナッスス山』、『聖体の論議』などを次々に完成させていったからだ。

 ところで、ブラマンテ陰謀説だが、どうもミケランジェロがローマからの逃亡を正当化するための口実だったようで、コンディヴィはそれを真に受けて記したのだろう。確かに、ブラマンテは農夫の子でありながら長年のあいだに巨万の財を築き、その間にすっかり贅沢の味を覚え、まるで道徳観念などどこかに置き忘れてきたようだと悪口を言うものもあったが、彼は同時代の記録を見る限り野心家ではあったが穏和な紳士だったようだ。レオナルド・ダ・ヴィンチの親友であり、彼が親しみを込めて「ドンニーノ」と呼んでいたことからもそれはうかがえる。方やミケランジェロは、のみを手にしたときの天才ぶりと同じくらい、気が短く神経質で猜疑心が強い、非社交的な人物だった。

(ヴァチカン宮殿「署名の間」)

(ラファエロ「アテネの学堂」 ヴァチカン宮殿「署名の間」)

(1508年 ラファエロ「美しき女庭師」ルーヴル美術館)

(1507年 ラファエロ「キリストの遺骸の運搬」ボルゲーゼ美術館)

(ラファエロ「自画像」ウフィツィ美術館)

 ミケランジェロと対照的にいかにも宮廷人受けしそうな雰囲気