玉蘭の咲くころ (三)
「ヤッホー、剣望くん!元気にしてたかい?」
その夜3番目にかかってきた電話から響いてきたのは、威勢の良い若い女の声だった。
「矢島・・・元気だな」
予想はしていたといえ、久しぶりに聞く矢島の声のあまりの明るさに、些か気おされて狭霧は言った。
「あったぼーよ、それが取り柄の矢島順子さ!・・あれ、でも、なんだか全然驚いてないみたいだね、剣望くん。どうして?」
「ああ、ちょっと事情があってな・・・ひょっとして、篠北や雪也たちもそこにいるだろ」
「当ったりー、よく解るねー。それも修行の成果かい?甲賀流忍術ってのは予知能力まで習得できるのかい?」
「あのな・・・んな訳ないだろ」
「あっはっは、ごめん、ごめん、冗談だよ」
矢島は豪快な笑い声をあげると話を切り替えた。
「・・・ところで、そのキタさんだけどさー、実はこの間男とデートしてね。相手は何と桜華台の勝取!で、・・・うぐっ」
「やじさん、勝手に話を作り変えるんじゃないよ」
電話の相手は、矢島の口を塞いだらしい篠北に代わった。
「剣望くん、久しぶり。元気そうだね」
「篠北か。相変わらずみたいだな。・・・勝取と会ったんだって?」
「そいつはやじさんのことを言ってるのかい?なら、相変わらずのお調子者さ。・・・勝取とは、先日宅配のバイトで行った届け先が偶々あいつの家だったんで、ちょっと世間話をしただけだ。で、そん時お前さんの話になってね。元気にやっていると伝えておいたよ。桜華台の中村が気にかけていたと勝取は言ってたが、ま、あれで本人も一応お前さんのことが気になってはいたんだろう」
中村。勝取。一瞬、狭霧の胸に、桜華台で過ごした日々が蘇った。あれから、まだ一年と経っていない。けれど、あの二人の名前を、桜華台を去った後にまたこんな風に聞くことになるとは、あの頃の自分には想像もできなかっただろう。
「・・・そうか。また二人に会うようなことがあったら、俺がよろしくと言っていたと伝えてやってくれ」
「ああ、分った。・・・どうしたんだい、剣望くん。今日はやけに素直だね」
「そ、そうかな・・・」
どこか優しさを感じさせる声で篠北にそう言われて、狭霧は戸惑った。もしかしたら、さっき坂口に言われた言葉のせいだろうか。今日、狭霧に電話をかけてきた人々は、言い方こそ十人十様ではあっても、皆、狭霧のことを気遣う言葉を口にしていた。そして、そのことに気が付かぬほど、狭霧は鈍感ではなかった。
「・・・しんみりとお話になっているところお邪魔してすみませんが、女史・・・そろそろ電話を代わっていただけないでしょうか」
「・・・雪也。お前さん、またろくでもないことを言うつもりじゃないだろうね」
受話器の向こうから、雪也の声と、うんざりしたような篠北の声が聞こえてきた。
「あ、心外だなあ。こう見えても、ぼくは常々剣望さんのことを気にかけてですね・・・」
「あー、分った、分った。いいから、さっさとお話し」
そう言う篠北の声が聞こえたあと、電話の相手は再び代わった。
「あ、剣望さん。ぼくです。徳成です。その節は、大変お世話になりました」
相変わらず馬鹿丁寧な雪也の物言いに、狭霧も思わず「い、いや、こちらこそ・・・」などと返事をしてしまっていた。
「それでですね。こうやってお電話しましたのも、実はぼく、折り入ってお願いしたいことがありまして」
「な、何だ?」
「今までも、ぼくは何度か赤目のほうへはお邪魔しているんですが、剣望さんのお住まいの香落渓へは、訪問する機会をずっと逸していまして。で、今度赤目を訪れるときは、香落渓の名高い渓谷美を是非堪能したいと思っているんです。その際には、色々お世話になると思いますので、そのご挨拶を・・・」
「あ、ああ。それは構わないけど」
狭霧が答えたとき、そこへ割って入る別の声があった。
「見え透いていてよ、雪也さん。あなたの場合、お目当ては渓谷美より、伊賀牛の石焼でしょう」
今度は貴子姫だった。
「あ、姫、ひどいなあ。ぼくだって、自然の美を愛でる風流心くらい持ちあわせていますよ」
「はいはい。いいから、早く電話を代わってちょうだい」
貴子姫は雪也から受話器を取り上げると、
「もしもし、剣望くん。貴子です。雪也さんじゃないけれど、その節はお世話になったわね。その後、そちらもお変わりないかしら」
「ああ。・・・変わりないよ」
「そう、良かったわ。ところで、うちの鉄砲玉みたいな総長ですけれど、本人がああ言っているので、そのうちひょっこりとそちらをお訪ねするかもしれないわ。そしたら、適当にあしらってやってくださるかしら。但し、そちらにあまり長居をするようなら、遠慮なく追い出してやっていただいて結構よ」
総長の立場も形無しな貴子姫の言葉に、背後で憤慨する雪也の声が重なる。二人のやりとりに吹き出しそうになりながら狭霧は答えた。
「・・・分かった。そうするよ」
「お願いするわ。・・・あと、これは剣望くんに関わることなのだけれど」
少し間を置いたあと、改まった口調で貴子姫は切り出した。
「俺に?」
松平は何を言うつもりなのだろう。狭霧はいぶかりながら聞いた。
「ええ。実は、剣望くんが駿河北高に転入したとき、本来なら三葉の在籍名簿から削除するところなのだけれど、私の一存で一時的な休学扱いにしたの。つまり、もし、剣望くんにその気があれば、いつでも、三葉の生徒として復籍できるのよ。・・・そのことを知っておいてもらいたかったの」