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13th hour garden

玉蘭の咲くころ (四)

2016.03.30 13:13

矢島たちからの電話を終え、自室へ戻った狭霧は机の前に座りほっと息をついた。皆変わらない様子で、やはり少し懐かしかった。

もっとも、松平が言った言葉には驚かされたが・・・三葉にまだ籍があるなんて、考えてもみなかった。でも、そもそも松平は何のために自分の名前を三葉の名簿に残したんだろうか。

そう思ったところで、狭霧は電話の中に小鉄がいなかったことに気が付いた。貴子姫の言葉に驚いてさっきは気がつかなかった。

雪也はいたのに、どうしたんだろう?何かあったのだろうか。

一瞬、疑問に思ったが、狭霧はすぐにそれを打ち消した。

まあ、いいか。小鉄が電話に出なかったからって、気にするようなことじゃない。あいつらも、そう四六時中つるんでいる訳じゃなかろう。何か理由があってあの場にはいなかっただけだろう。

そう気を取り直して、狭霧は何気なく窓の外に眼をやった。視界の左隅に白木蓮の木の一部分が見えた。庭は東西に伸びる横長の家屋の南側にあり、白木蓮は、その東寄りの場所、縁側のある隣の和室のほぼ正面に植えてあった。

白木蓮に引かれるようにその方向へ視線をやった狭霧は、すぐに慌てて立ち上がった。急いで襖を開けて隣の和室へ入り、縁側から外に出る戸を開ける。踏石の上に置いてある庭用の履物をもどかしくつっかけると、庭に降り立った。

正面にある白木蓮の大木は、その姿全体を夜の闇の中に白く浮き上がらせていた。まるで無数の白い鳥が枝という枝に止まり、羽を休めて眠っているようにも見えた。

その白木蓮の木の手前に、斜め後ろ姿を見せて佇む人影があった。背中で一つに束ねた長い漆黒の髪が闇に溶け、白い横顔ばかりが白木蓮の花のように浮かび上がっていた。母親そっくりの顔は妖艶なまでに美しく、白木蓮の花の精が人の形をとって現われたかのような錯覚さえ起こさせた。

「小鉄・・・」

狭霧に名前を呼ばれて、小鉄は振り向いた。縁側の踏石の側で呆然と突っ立っている狭霧を見ると、ふわりと微笑みを浮かべた。それから、白木蓮の枝を見上げた。

「見事な白木蓮だ。この庭にあるとは知らなかった。・・・だから、仮住まいをここに決めたのか?」

突然狭霧の家を訪ねてきた理由を言わず、小鉄はそんなことを聞いてきた。

普段と変わらぬ小鉄の口調に狭霧の呪縛が解けた。狭霧は小鉄の立っている場所に向かって歩き出した。

「・・・まあな。この庭にはこの木以外も薬効のある植物が多いんだ。俺たちが来てから植えたものもあるけど、大部分は元から生えてた」

「そのようだな。芍薬、梔子、忍冬、紫蘭、接骨木・・・前の家主がその方面に詳しい人物だったかもしれないな」

狭霧は小鉄の傍らで立止まり、同じように白木蓮を見上げた。

小鉄は自分の隣に並んだ狭霧を見て、

「知っているか?白木蓮は漢方にも用いるが、中国では食用としたり、茶として飲んだりするそうだ」

「知ってる。今日、夕飯に粥にして食った」

「ははは、そうか」

小鉄は破顔してから、

「玉蘭粥だな」

と言った。

「玉蘭?」

「白木蓮の漢名だ。モクレン科のなかでも、早春にもっとも早く花を咲かせるせいか、迎春花、望春花とも呼ばれるらしい」

「へえ・・・」

狭霧は闇に浮かび上がる白木蓮の枝を見上げた。

春を迎える花。だから、今夜、小鉄がここに来たのだろうか。香落渓に春を迎えるために・・・そう考えて、狭霧はすぐに赤面した。何を考えているんだ、俺は。どうやら、白木蓮の花に大分毒されてきているらしい。

ふと視線を感じて横を見ると、小鉄が少し眼を細めるようにして、こちらを見ていた。

「何?」

「いや・・・」

そう言って小鉄は狭霧の髪に手をやろうとするかのように右手を伸ばしかけたが、途中でやめて腕を下ろした。それから、狭霧の顔を覗き込むようにして、

「少し、背が伸びたな」

と言った。

「え・・・?」

狭霧は驚いて思わず隣に立っている小鉄を見上げた。小鉄との身長差は以前と変わらないように見える。

「俺も、伸びたんだ」

狭霧の考えを読んだかのように、小鉄は少し笑いを含んだ声で言った。

会話が途切れ、しばらくの間、二人は黙ったまま並んで白木蓮を眺めた。

まだ冷たい夜の空気は白木蓮の強い芳香を含んでいた。その香りを胸に吸い込みながら、狭霧は自分がひどく穏やかな気分でいることに気が付いた。常に心のどこかにあった小鉄への反発やわだかまりも不思議なくらい感じなかった。触れ合うくらいに間近にいながら会話も交わさず、夜の闇に映える白い花をただ眺めているのが、ずっと小鉄とはそうだったかのように自然なことに思えた。

小鉄はどう思っているんだろうか。狭霧はそっと隣にいる小鉄の表情を伺った。

小鉄はすぐにその視線に気付いて、狭霧に微笑みかけた。その眼差しの優しさに、狭霧はどきりとした。

狭霧は慌てて眼を逸らし、白木蓮を見る振りをした。そうしながらも、小鉄の視線が自分に向けられているのを感じ、何故か頬が熱くなった。さっきまであんなに穏やかな気分だったのに。何だって、俺は、こんなにどぎまぎしてんだろう・・・

そのとき、狭霧は自分の肩を何か暖かいものが包むのを感じた。

「上着を着てこなかったんだな。・・・風邪を引くぞ」

小鉄が自分の上着を狭霧に掛けてそう言った。

いいよ、と狭霧は反射的に上着を返そうとしかけて、躊躇った。小鉄の温もりが残る上着は暖かく、とても心地良かった。思ったより身体が冷えていたのだろうか。何故か手放したくないような気がした。

礼を言うのも照れくさくて、狭霧は黙って肩に掛けられた上着の前を合わせようと引っ張った。小鉄のほうを見ずに白木蓮が枝を伸ばす夜空を見上げる。隣の小鉄も同じように空を見ているのが分った。

「・・・今は盛りだが、じき花も終わる。そうしたら、次は桜だ。秋の香落渓は紅葉でそれは見事だが、春の渓も美しいだろうな」

桜。山吹。躑躅。春の花に彩られる香落渓に思いを馳せるように小鉄は言った。

多分な、と小鉄に返事をしながら、狭霧はふと、自分の香落渓での暮らしは終わろうとしているのかもしれないと思った。

― いつでも戻って来れるのよ。

貴子姫の言葉が胸をよぎった。

肩に小鉄の腕が回され、手が置かれるのを狭霧は感じた。その手は持ち主の上着と同じように温かく心地良かった。

小鉄の手を肩に感じながら、狭霧は、もうまもなくしたら見られる花咲く春の渓の景色を思い浮かべていた。



甲賀の里へ寄るのだと言って、小鉄は長柄のバイクを借りて帰って行った。里で何か話があるのかもしれなかった。香落渓にいたのはほんの30分程度で、結局、狭霧は小鉄が今夜訪ねてきた訳を聞きそびれていた。

小鉄が去ってから小一時間もしたころ、再び電話が鳴った。その日4度目の電話だった。

こんな時間に誰からだろう。いぶかりながら、狭霧は電話に出た。

「はい。剣望です」

「・・・ボーイ?」

少し間を置いて受話器から響いてきたのは、独特の深みのある声だった。

「ハーディさま・・・!」

電話はハーディからだった。

「ああ、僕だ。声を聞けて嬉しいよ。元気にしていたかい?」

「ええ。・・・でも、ハーディさまはどうして?アメリカに戻られたのでは?」

「ああ、そのとおり。今、ニューヨークだ。こっちは朝だよ。毎日、老ロイドバーグにこき使われている。全く、日本が恋しいよ。・・・どうしたんだい、珍しく笑っているね」

くすりと小さな笑いを漏らした狭霧を聞き咎めてハーディは言った。

「す、すみません。今夜は色んな人から電話をもらって・・・直接訪ねて来た奴もいたので。ハーディさまからもと思ったら、なんだかおかしくて」

「先を越されたか・・・」

「え?」

しまったというような口調でハーディは言った。

「いや、これはうかつだった。日本との時差をすっかり忘れていたよ。恐らく、皆も僕と同じ理由だったと思うが・・・遅れを取ってしまったのは残念だが、僕も用件を言わせてもらってもいいかい?」

「え、ええ、勿論。・・・あの、その理由って・・・?」

訳が分からずそう尋ねた狭霧の耳に、一呼吸置いて、少し遠く聞こえるハーディの英語が届いた。

「― Happy Birthday. You’re seventeen now」

                                      (了)