幻想を抱く人は幸せか不幸か
短期間で、3ヵ国を見た。もう行きたい国なんてあまりないと思っていたのは、新しい発見や気持ちが揺れ動くほどの何かを得ることは、もうないと思っていたからだ。
とんだ勘違いだった。
僕らが生まれた時には、「Made in Japan」や「TOKYO」というブランドは既に出来上がっていて、日本人としてのプライドは、アジアという狭い概念の中でしっかりと確立されていたように思う。なんだかんだ日本が一番だろ、そう思っていたのはおそらく僕だけではなくて、外を知らない人は特に、アジアの中の日本は、色々他国のことを聞きはするけれど、それでも日本が一番先進的で、綺麗で、発展した国だろうと、そう思っているに違いない。正直僕も、自分の目で見るまではそのように思っていたけれど、例えばシンガポールに来て、自分が恥ずかしくなってしまった。
着いてすぐ、これ東京と一緒だなと、そう思ったけれど、時間が経ってからは、東京よりも未来があることに気が付いてしまった。笑ってしまうくらい、僕は勘違いしていたのだ。
これからの日本は、人口が減って、年寄りのための国になる。別にそれ自体が悪いことではないのだけど、若者は選挙に行かず、自分が住んでいる国のことすら知らず、海の外を見ようとしない。それを作ったのもの結局、日本のおじさまたちが作った構造的な問題であり、その責任を取るのは若者だとそう思っていたけれど、もうこれからは、未来が見えている頭の良い若者は、日本にいる必要がなくなっていく。変なしがらみによって自分がやりたいことができるのに我慢したり、おっさんに文句を言いながら生きていく若者は、悪い意味で日本からいなくなっていくのかもしれない。
でも僕らは、選挙に行かないから、そんなことを言う資格はないのだ。そうか、そうなのか?本当にそうなのだろうか?わからない。
現実を見て、戦略を練って、動く。そんな当たり前のことが、できなくなっている。別にみんな、夢を持ちたいわけではない。ただ、幸せになりたいのだ。その可能性がある日本という国で、その可能性を持たずに死んでいく若者を、これまで放置してきたのは一体誰なのか。幸せになろうよと言うと、みんな幸せになりたいわけじゃないんだと、そう言われる。幸せを強要するなと、そう言われる。それは幸せになる可能性が極めて低い者たちに失礼だとそう思っても、彼らはそんな人々のことは知らないのだ。自分が持っている可能性の大きさを、知らないのだ。
人間は、難しい。全くもって、シンプルではない。
僕は、何かできるだろうか。何ができるだろうか。