松本清張 著『天城越え』
わたしは実は過去に
ひとを殺しているのではないか?
106時限目◎本
堀間ロクなな
私は、自分のところで刷ったこの本を何気なく読んで、はからずも遠い少年時代の天城越えを思いだした。トンネルを向こうに越えた見知らぬ他国、湯ヶ島の途中まで連れになった菓子屋と呉服屋、とぼとぼ歩いてくる振分け荷物と番傘を肩にした大男の土工、きれいな着物をきた若い女、白粉の匂いと柔らかい声、蒼然と暮れゆく天城の山中、その中に小さく咲いた、夕顔のような女の顔。――
『天城越え』(1959年)の一節だ。松本清張が残したおびただしい作品のなかでも、行間からうそ寒い不気味さが立ち上ってくることではこの短篇が随一ではないだろうか。大正末年の夏のこと、引用部分に登場する大男の土工と夕顔のような娼婦、そして16歳の少年だった「私」の3人が伊豆の天城トンネルで行き交ったのち、土工が死体となり、犯人として娼婦が逮捕される……。三村晴彦監督による映画(1983年)では、田中裕子が娼婦役を匂うばかりの色香で演じて日本アカデミー主演女優賞を受けた。そのせいもあってヒロインの存在感に目が向きがちだけれど、このミステリーのキモは別のところにあると思う。
土工殺しから30数年の歳月が流れて、現在は印刷業を営む「私」のもとへ静岡県警から過去の事例報告を本にまとめる仕事が持ち込まれる。そこにはくだんの事件も含まれていたことから、冒頭の文章につながっていく。やがて本を引き取りに訪れたのは、事件当時、現場で捜査にあたった田島という老刑事で、かれは差し出されたお茶を飲みながら語りだすのだ。自分はどうやら捜査を誤った、真犯人は娼婦ではなく、前後してトンネルを通過したもうひとりの人物だ、と。その少年だった「私」に向かって……。
わたしが初めてこの個所を読んだのは夜中だったこともあり、つい胴震いしてしまった。まさに冷たい手で心臓をつかまれたような感覚に襲われたのだ。その感覚は読み返すにつれて和らいだとはいえ、そのぶん陰にこもった不安感となっていまもわだかまっている。これは一体、何か? この作品においては、すでに殺人罪の時効が成立しており、いまさら当時の真相が明らかになったところで罪には問われないことが前提となっている(2010年に殺人罪の時効が廃止されたため、現在ではこうはいかない)。わたしがうそ寒さを覚えるのはそのへんではなくて、「私」がこのとき過去の殺人という事実に直面したことだ。おそらくは事件以後の30年あまり、戦時をはさむ日々を過ごすなかで、いつしか自己の犯罪を忘れてしまった、あるいは、忘れてしまいたいとの心理からその記憶を抑圧してきたのではなかったか。ところが、老刑事の出現によって、いきなり眼前に過去がどす黒い口を空けた恐ろしさ!
わたしもこの年齢になって、ふと、遠い過去にだれかを殺したのでないかという疑いに駆られることがある。まったく記憶がないとしても、心理的な防衛機制によってわれ知らず抹消しているだけではないか。もちろん、そうした疑いを持つ根拠はないし、疑いを持てば不快を味わうわけだが、それでも反問したくなる。じゃあ、これまでだれも殺したことがないと確言できるひとはいるのだろうか、と。
実のところ、人類の長い歴史にあって、ひとが多様な相互関係のもとでだれとも生命のやりとりをせずに一生を送れるようになったのは、ごく最近の話ではないか。たいていはみずからの身辺に死が存在して、それに対して大なり小なり責めを負う立場で生きてこなければならなかったからこそ、宗教や芸術も必要とされたのではないだろうか。そうした人類のおぞましい記憶の蓄積が、この『天城越え』に触れるたびによみがえってくるのを感じてひやりとするのだ。作品は「私」のこんな述懐で閉じられる。
田島老刑事は、あの時の “ 少年 ” が私であることを知っている。三十数年前の私の行為は時効にかかっているが、私のいまの衝撃は死ぬまで時効にかかることはあるまい。