江戸の名所「品川」①紅葉の名所「海晏寺」
江戸時代、紅葉の名所といえば下谷の「正燈寺(しょうとうじ)」と並んで品川の「海晏寺」。
「江戸丹楓の名勝にして一奇観たり。晩秋の頃は満庭錦繡を晒すが如く、海子氏の山々は紅の葉分に見えわたり、蒼海夕日に映じては又紅を濯ふが如く、書院僧房もその色にかがやき、この地遊賞の人醉食ならざるはなし」(『江戸名所図会』「海晏寺」)
また江戸端唄「海晏寺」でも、真間(弘法寺)はもちろん、奈良の竜田川や京の高尾(高雄)さえ及ばないほどの美しさだと謡っている。
「アレ 見やしゃんせ 海晏寺 真間よ 龍田が 高尾でも 及ぶまいぞえ 紅葉狩り」
浮世絵にも数多く描かれた。現在、南品川の第一京浜沿いにある海晏寺。岩倉具視や松平春嶽の墓があるものの、とりたてて特徴のあるものもないが、江戸時代はその広大な庭に紅葉茶屋が設けられるなど、日帰りできる行楽地として多くの人で賑わった。現在、墓地になっている境内西側の高台が紅葉狩りの一大名所で、江戸の人々は弁当持参で紅葉と海岸風景の一日を楽しんだ。
ところでこの寺の歴史は古い。創建は鎌倉幕府五代執権の北条時頼の時代である。1251年(建長3年)、近くの海でサメが漁師の網にかかり、サメの腹から仏さまが出てきた。これが御本尊の鮫頭観音。これを聞いた時頼が開基となって宋から渡来した禅僧蘭渓道隆の開山により曹洞宗の寺院として創建されたと伝えられる。「鮫洲」の地名はこれがルーツという。
品川というと東海道の最初の宿場として江戸時代になって栄えたイメージが強いがその歴史は古い。中世以来、品川は江戸内湾(東京湾)有数の湊だった。目黒川河口付近にあったと考えられる品川湊は、紀伊半島・東海地方と関東を結ぶ太平洋海運と江戸内湾を経て、旧利根川水系・常陸川水系経由で北関東や東北へ続く流通路の結節点として栄えた。そのため、品川のまちには、関東への布教拠点として、各宗派の寺院が建てられた。現在、北品川・南品川にある寺院のほとんどはこの時期に建立されたものである。
(勝川春潮「海晏寺の楓狩」)
(広重、豊国「江戸自慢三十六興 海案寺紅葉」)
(広重「江戸名所」 「品川海晏寺紅葉見」)
(広重「江戸名所」 「品川海晏寺紅葉見」)
(『江戸名所図会』「晏寺紅葉見之図」)