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「第二の家」ブログ|藤沢市の個別指導塾のお話

芥川賞受賞作品「むらさきのスカートの女」に込められたメッセージとは。後半ネタバレ考察ありの読書感想文

2019.08.23 15:05


第161回の芥川賞を受賞した今村夏子さんによる不思議な作品「むらさきのスカートの女」。


実はこれ、中学一年生の生徒が、「先生、これ面白いです」と持ってきてくれました。本の中身はさておき、既にそのこと自体が面白かったんですが、お陰様で楽しませていただきました。


それにしても、なんとも不思議なお話。


軽い気持ちで足を踏み入れたら、いつの間にか迷宮に入り込み、そのまま帰ってこれなくなってしまった感覚です。「え?どういうこと?」ですって?僕もなかなかそれを言葉にしづらいのです。


というわけで、一緒にこの本の謎を紐解いていきましょう。まず、あらすじと紹介は、こんな感じ。

近所に住む「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女性のことが、気になって仕方のない〈わたし〉は、彼女と「ともだち」になるために、自分と同じ職場で働きだすように誘導し……。『こちらあみ子』『あひる』『星の子』『父と私の桜尾通り商店街』と、唯一無二の視点で描かれる世界観によって、作品を発表するごとに熱狂的な読者が増え続けている著者・今村夏子の最新作。


ちなみに、獲得した賞、芥川賞とは純文学の新人に与えられる賞。ご存知、芥川龍之介氏の業績を記念して創られた賞で、対象は新人作家による発表済みの短編・中編作品であり、受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円が授与され、その受賞作は『文藝春秋』に掲載されるそうです。僕の勝手なイメージは文学界のM1グランプリ(コンビ結成年数制限あるし)なんですが、こんなこと言ったら怒られるかな。


僕は文学に疎いところもあって、芥川賞よりは直木賞を獲った本の方を楽しめるタイプだったのですが、今回この本を読んでみて、「お、改めて歴代の芥川賞も読んでみようかな」と思うことができました。


まずネタバレなしに言うとすれば、この小説は「町の中にある森」みたいなもので、「いつでも帰れるから安心安心」と進んでいくと、いつの間にか危ない場所へと足を踏み入れており、挙げ句の果てには帰り道がわからなくなってしまうという怖さを持っていると思います。え、まだよくわからないですか。


全体的な感じは、昔流行った「コンビニ人間」の日常の中の不気味さ加減とも似ていますが、個人的にはもう少し柔らかい感じ。


きっと好き嫌いも分かれるでしょうし、ぽかんとする方も多いとは思うのですが、この本自体150ページもないですし、さらりと1時間ぐらいで読めるので、少しでも気になった方はこの先を読まずにまず本書を読んでみていただくのが良いでしょう。


さて、ここからネタバレありの読書感想文のスタートです。



むらさきのスカートの女 読書感想文



『2つのメッセージ』


小説にはよく「2つの視点」があるといわれる。


一つ目の視点は「神の視点」。

信長は激怒した。秀吉が寝坊したからである。一方その頃、明智は虎視眈々とあることの準備を進めていた。

みたいな文で使われている視点である。「三人称の視点」ともいう。


二つ目は、この本でも使用されている「一人称の視点」。僕は、私は、などで綴られるものだ。神の視点に比べ、登場人物の内面を語りやすいため、各々の心情に焦点が当たる文学において、用いられることの多い視点である。


僕が今更わざわざ言うことでもないと思うのだが、この本、作者である今村夏子さんの「一人称視点」での語り口が素晴らしい。


主人公の「わたし」の一人称視点で描かれた世界は、細かくてユニークでリアルでコミカルで「わかる、わかる」と頷きたい部分も多くあり、ぐんぐん読み進んでいける。


むらさきのスカートの女のエピソードも、まるでカフェかどこかで友達から「こんな人がいるんだよ」と笑い話を聞いているようで、あちこちに散りばめられたおかしさを片隅に感じながらも、ぐんぐん読み進んでいける。


道中には体言止めなども多用されていて、テンポよく読め、小気味好ささえ感じる。リズムよく、僕らはぐんぐんと先へ進んでいける。


ただ、進んでいた僕らはあるとき気付くのだ。



これ、やばい。



薄々感じていたおかしさに。そこにある狂気に。奥深い闇に。謎のままだった感覚に。僕らはもう戻れない道の中で、出会うのだ。主人公である「わたし」の恐るべき正体に。


「わたし」は、家賃滞納や無銭飲食や盗品売買やストーキングを行う。しかも、その異常性に自身では気付かない。むらさきのスカートの女の行動の異常さには細かく指摘を繰り返すのに、自身のそれにはまったく触れない。盲目である。


同様に、「わたし」は誰にも気付いてもらえない。存在感がない。居るのにも気付かれない。きっと、自分でも気付いていない部分が多くあるのだと思う。


自分の目の中でも、他人の目の中でも、何者にもなれなかった彼女は、憧れの存在を見つけ、それになろうとし、そして実質最後にはむらさきのスカートの女同様に肩を叩かれる。目的は達したように見える。見方によっては、ハッピーエンドだ。でも、そこにまとわりつく違和感は、僕らにそれとは違う余韻を伝える。


嫉妬。妬み。羨ましさ。物語の中でも「わたし」だけでなく多くの登場人物がその「魔力」に捕らわれている。これは本編にも出てくる、カトレアの花言葉でもある。僕らの生きる現実の世界でも、この魔力に取り憑かれているものは多いように感じる。


そこで、この物語は教えてくれているように思うのだ。その果てにあるもの。結局、その先に待っているものは、幸福なんかじゃないということを。


それにもう一つ、僕がこの物語から感じ取ったことがある。


途中描かれたむらさきのスカートの女の成長譚、特に子どもたちとのくだりは、なんだかほのぼのする場面でもあった。むらさきのスカートの女は、物語序盤から後半にかけて、実にわかりやすく変貌を遂げていた。また、主人公の「わたし」も、それが良い方向かどうかは置いておいて、確かに変化している。


そう、僕がここから感じ取ったメッセージはこれだ。


人は変われる。誰でも、どこでも、いつからでも。


「本当に?あたしにも?」


そんな風に尋ねたら、このような返事が貰えるに違いない。


「できるよ。慣れるまでが大変だけど、コツさえ掴めば誰でもできるよ」


僕も、そう思う。




ここまで勝手に感想をつらつらと述べてみたが、きっと僕と違った見方をする方も多くいらっしゃるだろう。


それが、文学の面白さだと思う。だから怒らないでね。


最後に、個人的にこの本最大最高の謎について、読者の皆様に問いかけをして終わりにしたい。


「わたし」、なぜチーフになれたんだろうか。




本日もHOMEにお越しいただき誠にありがとうございます。

それもまた「人は変わる」ということか。