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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

~音楽家の肖像~オギュスタン・ウジェーヌ・スクリーブ

2019.08.23 07:48

オギュスタン・ウジェーヌ・スクリーブ(1791年12月24日パリ - 1861年2月20日パリ)

フランスの劇作家、小説家、オペラ台本作家である。

「よく作られた演劇」(ピエ・ビエン・フェイト)の完成度で知られ、100年以上にわたり人気のある劇場の主力であり、最も成功した多くの大オペラの台本を書いたことで知られている。

彼はブルジョアジー(中流階級)をテーマに書きました。作品の中心は中流階級の娯楽でありコメディーを書くことが主な仕事であった。ヴィクトル・ユーゴーのような同じ時代のロマン派の演劇とは対照的であり、詩人のテオフィル・ゴーティエは、「文学、批評家の反対にもかかわらず、詩、叙情、スタイル、哲学、真実、または自然主義のない作家が時代の最も成功した作家になることができる」と疑問を呈しスクリーブに批判的であった。

オギュスタン・ウジェーヌ・スクリーブは、絹商人だった両親を幼い頃に亡くした。しかし、スクリーブはその遺産を受け継ぎ高名な弁護士の庇護の下で法律の高等教育を受ける。しかしスクリーブは演劇に興味を持っていたため、1810年頃からヴァリエテ座で上演するための喜劇の脚本を書き始めた。1813年からはパリ、オペラ=コミック座のためのオペラ台本を書き始めた。1815年、シャルル・ドレスル=ポワルソンとの共作『国民軍の一夜』を発表し大成功を収めた。

1820年にドレスル=ポワルソンが新たな劇場、ジムナーズ座の運営を始めると共に、スクリーブは専属ヴォードヴィル(17世紀末にパリの大市に出現した演劇形式)の脚本家として数多くの脚本を書いた。

1815年から1830年までの作品は総数150本以上という驚異的な数の作品を書いた。また、コメディ・フランセーズでの演劇、オペラ座やオペラ=コミック座などへのオペラ台本も手掛

けた。

スクリーブの作品は共同制作でもあったため、40年間に244本のヴォードヴィル、95本のオペラ・コミック、(喜悲劇あわせて)47本の戯曲、28本のオペラ台本、そして9本のバレエ台本を書いた。

1829年にフランス人劇作家およびオペラ作曲家を糾合した組織「劇作家・作曲家協会」を設立した。

彼はドメーヌデモンタレーのパリ側の土地にアレクサンドルデルホームによって建てらえた城(現存しない)に住んでいた。

1849年には『アドリアーナ・ルクヴルール』(1902年初演)がオペラ化された。

1857年の終わりに、彼はピガールの邸宅にジュール・ヘローに6枚の壁画を描くように依頼した。

1898年から1912年まで国務院副院長を務めたジョルジュ・クーロンの父であった可能性があるとされている。1861年2月20日にパリのピガール12番地で死去した。パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。