「日曜小説」 マンホールの中で 第二章 6
「日曜小説」 マンホールの中で
第二章 6
「普通、なんてものはないんだよ」
次郎吉が、善之助の心を見透かしたように言った。
「うむ」
普通なんてものはないといわれ、今まで普通であると思っていた善之助自身が、普通ということに自信がなくなってしまっていた。自分は今まで普通であると思っていた。その普通の人間が、目が見えなくなったことで、普通ではなくなったと思っていた。しかし、そもそも普通がないということになれば、単純に目が見えない人でしかなく「普通ではなくなった」という部分がなくなってしまったということになるのである。
「普通とか、常識とか、結局自分で作っている卵の殻みたいなもので、中に入っていると、なんだか安心で守られているような気分になるが、結局普通の中にいると、本物の世界のこともわからないし、いつまでもひよこにもなれないでいるんじゃないかな。普通ってものがあるならば、一度飛び出してその外側から見てみればいい。普通がどれほど陳腐で滑稽なものか、爺さんならわかるはずじゃないか。まあ、言い方は悪いが目が見えなくなった時点で爺さんも普通ではないんだがね」
「その通りだ。普通じゃなくなった。」
「そうなんだ、だから毎日仕事に追われている若者の気持ちがわからなくなったり、なんでこんなに急いでいるんだろうというような感じになってきたんじゃないか。そして、爺さんも自分中心に考えるから、何かおかしいと思うようになった。まあ、俺なんか、社会そのものの普通から逸脱してしまったから、まともな仕事にもつかないで、泥棒稼業なんかやっているんだがね」
次郎吉は、なんとなく笑ったような感じだ。笑い声が出たわけではないので、善之助にはよくわからない。しかし、雰囲気でそのように感じる。
ここにいるのは「普通ではない」という二人である。普通ではなくなった経緯は全く異なる。先ほど、「泥棒を知らない普通の人」というような馬鹿にされ方をしたが、しかし、それは「普通の人」ではなく、単に相手の相手のことを理解せず、相手を「普通ではない」と思っているだけであるということなのである。
「なるほど。では普通とは一体何なのだ」
この年まで生きてきて、結局自分が全くわかっていない。それも「普通」などという、今までもっとも使ってきた言葉、そして自分がその「普通」の中に入っているというように思っていたことがわかっていないのである。善之助はかなりイラついた。いや、今までの自分というものが何だったのかわからなくなって、そのまま怒りに似た感情になってきたのだ。怒りに感じても何も変わらない。そのことは善之助自身が最もよくわかっている。しかし、なんとなく、今まで自分が信じていた「普通」ということに騙されていたかのような、まるで詐欺にあっていた自分がいま騙されたことに気付いてしまったようなやり場のない怒りに包まれた感じである。
「爺さん、普通なんてものはないから、いったい何なのだなんて聞かれても、そんなもんわかりゃしないよ」
「しかし、多くの人が言っているのだ。何かあるだろう」
「まあ、しいて言えば、自分が他の人と一緒と思うための道具じゃないか。」
「自分が他の人と同じと思うための道具」
「ああ、そうやって、自分は他の人とは違ない、他の人と同じであると信じ込んで、安心する。そんなもんじゃないのかな」
「他の人と一緒であると安心する……のか」
「ああ、だから俺みたいな、初めから他の人とは全く違う人生を歩んでいるものにしてみれば、普通なんてもんはないんだよ。いや普通じゃないから普通であることのつまらないことがわかるというものではないのかな」
普通じゃないから普通であることのつまらなさがわかる。次郎吉はそういった。確かにそうだ。普通である間は普通であるということから、普通が何なのかわからない。普通ではなくなった時に、普通ということがこういうことであったかということがわかるのである。それは善之助が目が見えなくなった時と同じだ。目が見えなくなった時に、初めて目が見えるときのことがわかる。そのようなものなのかもしれない。
しかし、もう一つ次郎吉は大事なことを言った。人間は他の人と同じであるということで安心するのである。逆に、今自分が目が見えなくなって感じている不満は「目が見えない」という「普通ではないこと」つまり他の人と同じではないことに対する不満なのではないか。つまり、他の人と同じであるという実感がなくなり、自分だけが他の人とは異なるというような「疎外感」に由来しているのではないか。
そうだ。誰も理解してくれない。いや理解してくれるはずがないという「疎外感」がそのまま、自分の性格に大きく影響してきたのではないか。今は、そうマンホールの中に落ちてからはそのような疎外感を全く感じない。それは目の前にいる次郎吉が、「普通ではない」からである。目が見えないわけではないが、しかし、彼も普通ではないのである。
「で、爺さんは、普通であったことで何か得したことはあるのかい」
次郎吉は追い打ちをかけるように言った。
「普通であることで得したこと……か」
そうなのだ。人間は「普通」でなければならないというような脅迫観念があり、普通でなければならないような感じがある。「出る杭は打たれる」というようなことわざがある通り「他の人と同じことをすること」を強要されていたのが社会である。逆に他に人と違うことをすれば、それが本来役に立つことであったり全体に貢献することであっても、あの人はおかしいとして、後ろ指をさされるのだ。逆に、間違っていることをしても、それがみんなでやればおかしくないというような感じになってしまっている。「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」まさにそのような状況である。そして結局普通の人が皆、一気に不利益をこうむり、中で運が悪い人はおかしなことになってしまう。
会社の営業でも同じだ。結局、普通ではない目新しいことをした人が最も良い。普通であるということは先人が行ったことと同じことをするということにすぎず、そのために、先人の実績を超えることはできない。そこで新たなことをしようとしても、結局は、その新たなことが会社という「普通」に理解されなければ、逸脱したとして、営業を取れても評価されないということになる。結局個性とか独自性といいながらも、先人がやったことを少しアレンジする程度のものでしかなくなってしまい、独自性が矮小化されてしまうということになってしまうのである。
つまり、「個性を消し、ほかの人と同化する」そして「先人の足跡を消さない程度に独自性や若い人・新しい人の功績を制限する」というような効果しかない。ある意味で、老人になってからならば「普通」であることの恩恵は非常に大きく受けるのかもしれない。しかし、その前に目が見えなくなってしまった善之助にとっては、「普通」ということに制限されたことばかりであって、普通によって恩恵を受けたことはなかったのではないか。そして恩恵を受ける段になって、自分の不注意から普通であるということから落後してしまったのである。
「確かに、次郎吉さん。あなたの言う通り、普通であることには何の意味もない。それでみんなと一緒と思って自己満足に浸っているだけなのかもしれない」
「爺さん。そうだろう。だから俺みたいに普通ではない人には普通であることのおかしさがよくわかるんだ。」
「逆に、次郎吉さんは普通でありたいと思ったことはないのか。いや、普通でありたいというよりは、他の人と一緒にいたいとか、そういう感じだが」
普通であるということが、ほかの人と同じでいることの安心感を生んでいるとすれば、逆に、普通ではないということは「安心感が犠牲に似合っている」つまり「疎外感がある」ということになる。その疎外感や、一人でいることへの不安、心細さというのはないのか。膳の末kは今の自分を思って、そのように聞いた。
「あるよ」
「やはり」
「もちろん、俺も人間だよ。しかしね、さっき言ったと思うけど、相棒が殺された。その相棒を助けられなかった自分になんとなく悲しさを感じてね。他人と一緒にいると、他人を不幸にしてしまうような気がするんだ。」
「助けられなかったということ」
「ああ、泥棒であるということは、それだけで孤独じゃない。仲間と一緒に泥棒をするということも十分にありうる。窃盗団なんて言われてしまうけどね。そうなれば仲間がいるから、何も大きな問題はないし孤独感もない。しかし、ほかの人と一緒にいるということは他に人、仲間に責任があるということなんだよ。特に泥棒なんて稼業は、まともに普通の人に援助してもらうことができないから、自分たちで助け合って頑張んなきゃならない。そうなった時に、責任をもって仲間を助けることができなければ、かえって悲しい思いをしてしまう。自分を攻めなきゃなんなくなっちまうんだ。それならば自分が孤独でいた方が誰にも迷惑かけないし、悲しい思いをしないでよい。そんなところかrな」
ちょっとカッコよい答えだ。しかし、本当にそうなのかもしれない。「他人に対する責任」とは一体何なのであろうか。善之助は、この年にして、年下の次郎吉に様々なことを教えられている。何か知らないが、自分とは違う人生を歩んでいるだけに、違う観点d芽生の御戸を見ているし、そのことが非常に今までの自分に刺激を与えているのである。
今となってはこのマンホールに落ちたことさえ、神様のプレゼントのような気がしてきた。
「責任とは何なのか」
膳の末kはつぶやいた。
「普通、なんてものはないんだよ」
次郎吉が、善之助の心を見透かしたように言った。
「うむ」
普通なんてものはないといわれ、今まで普通であると思っていた善之助自身が、普通ということに自信がなくなってしまっていた。自分は今まで普通であると思っていた。その普通の人間が、目が見えなくなったことで、普通ではなくなったと思っていた。しかし、そもそも普通がないということになれば、単純に目が見えない人でしかなく「普通ではなくなった」という部分がなくなってしまったということになるのである。
「普通とか、常識とか、結局自分で作っている卵の殻みたいなもので、中に入っていると、なんだか安心で守られているような機敏になるが、結局普通の中にいると、本物の世界のこともわからないし、いつまでもひよこにもなれないでいるんじゃないかな。普通ってものがあるならば、一度飛び出してその外がwかあら見てみればいい。普通がどれほど陳腐で滑稽なものか、爺さんならわかるはずじゃないか。まあ、いい方は悪いが目が見えなくなった時点で爺さんも普通ではないんだがね」
「その通りだ。普通じゃなくなった。」
「そうなんだ、だから毎日仕事に追われている若者の気持ちがわからなくなったり、なんでこんなに急いでいるんだろうというような感じになってきたんじゃないか。そして、爺さんも自分中心に考えるから、何かおかしいと思うようになった。まあ、俺なんか、社会そのものの普通から逸脱してしまったから、まともな仕事にもつかないで、泥棒稼業なんかやっているんだがね」
次郎吉は、なんとなく笑ったような感じだ。笑い声が出たわけではないので、善之助にはよくわからない。しかし、雰囲気でそのように感じる。
ここにいるのは「普通ではない」という二人である。普通ではなくなった経緯は全く異なる。先ほど、「泥棒を知らない普通の人」というような馬鹿にされ方をしたが、しかし、それは「普通の人」ではなく、単に相手の相手のことを理解せず、相手を「普通ではない」と思っているだけであるということなのである。
「なるほど。では普通とは一体何なのだ」
この年まで生きてきて、結局自分が全くわかっていない。それも「普通」などという、今までもっとも使ってきた言葉、そして自分がその「普通」の中に入っているというように思っていたことがわかっていないのである。善之助はかなりイラついた。いや、今までの自分というものが何だったのかわからなくなって、そのまま怒りに似た感情になってきたのだ。怒りに感じても何も変わらない。そのことは善之助自身が最もよくわかっている。しかし、なんとなく、今まで自分が信じていた「普通」ということに騙されていたかのような、まるで詐欺にあっていた自分がいま騙されたことに気ぢいてしまったようなやり場のない怒りに包まれた感じである。
「爺さん、普通なんてものはないから、いったい何なのだなんて聞かれても、そんなもんわかりゃしないよ」
「しかし、多くの人が言っているのだ。何かあるだろう」
「まあ、しいて言えば、自分が他の人と一緒と思うための道具じゃないか。」
「自分が他の人と同じと思うための道具」
「ああ、そうやって、自分はほかの人とは違ない、ほかの人と同じであると信じ込んで、安心する。そんなもんじゃないのかな」
「他の人と一緒であると安心する……のか」
「ああ、だから俺みたいな、初めから他の人とは全く違う人生を歩んでいるものにしてみれば、普通なんてもんはないんだよ。いや普通じゃないから普通であることのつまらないことがわかるというものではないのかな」
普通じゃないから普通であることのつまらなさがわかる。次郎吉はそういった。確かにそうだ。普通である間は普通であるということから、普通が何なのかわからない。普通ではなくなった時に、普通ということがこういうことであったかということがわかるのである。それは善之助が目が見えなくなった時と同じだ。目が見えなくなった時に、初めて目が見えるときのことがわかる。そのようなものなのかもしれない。
しかし、もう一つ次郎吉は大事なことを言った。人間はほかの人と同じであるということで安心するのである。逆に、今自分が目が見えなくなって感じている不満は「目が見えない」という「普通ではないこと」つまり他の人と小名ではないことに対する不満なのではないか。つまり、ほかの人と同じであるという実感がなくなり、自分だけが他の人とは異なるというような「疎外感」に由来しているのではないか。
そうだ。誰も理解してくれない。いや理解してくれるはずがないという「疎外感」がそのまま、自分の性格に大きく影響してきたのではないか。今は、そうマンホールの中に落ちてからはそのような疎外感を全く感じない。それは目の前にいる次郎吉が、「普通ではない」からである。目が見えないわけではないが、しかし、彼も普通ではないのである。
「で、爺さんは、普通であったことで何か得したことはあるのかい」
次郎吉は追い打ちをかけるように言った。
「普通であることで得したこと……か」
そうなのだ。人間は「普通」でなければならないというような脅迫観念があり、普通でなければならないような感じがある。「出る杭は打たれる」というようなことわざがある通り「他の人と同じことをすること」を強要されていたのが社会である。逆に他に人と違うことをすれば、それが本来役に立つことであったり全体に貢献することであっても、あの人はおかしいとして、後ろ指をさされるのだ。逆に、間違っていることをしても、それがみんなでやればおかしくないというような感じになってしまっている。「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」まさにそのような状況である。そして血胸普通の人が皆、一気に不利益をこうむり、中で運が悪い人はおかしなことになってしまう。
会社の営業でも同じだ。結局、普通ではない目新しいことをした人が最も良い。普通であるということは先人が行ったことと同じことをするということにすぎず、そのために、先人の実績を超えることはできない。そこで新たなことをしようとしても、結局は、その新たなことが会社という「普通」に理解されなければ、逸脱したとして、営業を取れても評価されないということになる。結局個性とか独自性といいながらも、先人がやったことを少しアレンジする程度のものでしかなくなってしまい、独自性が矮小化されてしまうということになってしまうのである。
つまり、「個性を消し、ほかの人と同化する」そして「先人の足跡を消さない程度に独自性や若い人・新しい人の功績を制限する」というような効果しかない。ある意味で、老人になってからならば「普通」であることの恩恵は非常に大きく受けるのかもしれない。しかし、その前に目が見えなくなってしまった善之助にとっては、「普通」ということに制限されたことばかりであって、普通によって恩恵を受けたことはなかったのではないか。そして恩恵を受ける段になって、自分の不注意から普通であるということから落後してしまったのである。
「確かに、次郎吉さん。あなたの言う通り、普通であることには何の意味もない。それでみんなと一緒と思って自己満足に浸っているだけなのかもしれない」
「爺さん。そうだろう。だから俺みたいに普通ではない人には普通であることのおかしさがよくわかるんだ。」
「逆に、次郎吉さんは普通でありたいと思ったことはないのか。いや、普通でありたいというよりは、他の人と一緒にいたいとか、そういう感じだが」
普通であるということが、他の人と同じでいることの安心感を生んでいるとすれば、逆に、普通ではないということは「安心感が犠牲になっている」つまり「疎外感がある」ということになる。その疎外感や、一人でいることへの不安、心細さというのはないのか。善之助は今の自分を思って、そのように聞いた。
「あるよ」
「やはり」
「もちろん、俺も人間だよ。しかしね、さっき言ったと思うけど、相棒が殺された。その相棒を助けられなかった自分になんとなく悲しさを感じてね。他人と一緒にいると、他人を不幸にしてしまうような気がするんだ。」
「助けられなかったということ」
「ああ、泥棒であるということは、それだけで孤独じゃない。仲間と一緒に泥棒をするということも十分にありうる。窃盗団なんて言われてしまうけどね。そうなれば仲間がいるから、何も大きな問題はないし孤独感もない。しかし、他の人と一緒にいるということは他に人、仲間に責任があるということなんだよ。特に泥棒なんて稼業は、まともに普通の人に援助してもらうことができないから、自分たちで助け合って頑張んなきゃならない。そうなった時に、責任をもって仲間を助けることができなければ、かえって悲しい思いをしてしまう。自分を攻めなきゃなんなくなっちまうんだ。それならば自分が孤独でいた方が誰にも迷惑かけないし、悲しい思いをしないでよい。そんなところかな」
ちょっとカッコよい答えだ。しかし、本当にそうなのかもしれない。「他人に対する責任」とは一体何なのであろうか。善之助は、この年にして、年下の次郎吉に様々なことを教えられている。何か知らないが、自分とは違う人生を歩んでいるだけに、違う観点で物ごとを見ているし、そのことが非常に今までの自分に刺激を与えているのである。
今となってはこのマンホールに落ちたことさえ、神様のプレゼントのような気がしてきた。
「責任とは何なのか」
善之助はつぶやいた。