Okinawa 沖縄の旅 Day 23 (24/08/19) Shuri (3) 首里 その3
Former Sunga Theater 寒水川芝居跡
Former Shikina Seimei Residence 識名盛命旧宅跡
Sunga Hija Public Well 寒水川樋川
Memorial Tower of Icchu Kenji 一中健児の塔
Site of Kanagusuku Village School 金城村学校跡
Shuri Kanagusuku Stone Paved Road 首里金城町石畳道
Uchikanagusuku Taki 内金城嶽境内
Shuri Kanagusuku GiantBishopWood 首里金城の大アカギ
Kanagusuku Muraya Village House 金城村屋
Kanagusugu Ufu Hija Public Well 金城大樋川
Naka nu Gaa Public Well 仲之川
Usuku Gaa Public Well 潮汲川
Aragami Nuka Public Well 新垣ヌカー
Kanagusuku Bashi Bridge 金城橋
Remains of SakiYama Baba 崎山馬場跡
Sakiyama Utaki Shrine 崎山御嶽
Sakiyama Hija Public Well 崎山樋川
Sakiyama Sites 崎山遺跡
Zuisen Awamori 瑞泉酒造
Amagoi Taki Shrine 雨乞嶽
Remains of Uchaya Udun 御茶屋御殿
Uchaya Uruno Stone Lion 旧御茶屋御殿石造獅子
Uchaya nu Billa 御茶屋の坂
Tomb of Chinen Sekka 知念績高の墓
Hijigawa Bashi Bridge ヒジ川橋及び取付道路
Former Sunga Theater 寒水川芝居跡
首里寒水川村 (スンガーむら 現首里寒川町 さむかわちょう) に建てられた芝居小屋跡。首里演芸場 (しゅりエンジバ) ともいう。1879年 (明治12) の沖縄県設置後、1892年 (明治25) 頃、職を失った首里士族達によって設けられた。当初は、首里人士 (じんし) と那覇から引き抜いた役者で興業を行っていたが、後に新垣一派が入って好評を博し、興業時には路地に店も立って賑わったという。また、歌劇 泊阿嘉 (トゥマイアーカー) の作者我如古弥栄 (1881~1943年) は、寒水川村で生まれ、8歳の時に寒水川芝居に入り、小間使いをしながら芸の道を覚えたといわれる。1914年 (大正3)、那覇・首里間の電車開通にともない、敷地の一部が削り取られ、寒水川芝居は幕を閉じた。
Former Shikina Seimei Residence 識名盛命旧宅跡
琉球王国時代の政治家・和文学者、識名盛命の旧宅跡。識名は、毛国鼎中城按司護佐丸 (もうこくていなかぐすくあんじごさまる) を始祖とする豊見城殿内の分家で、伊野波殿内七世盛紀の三男である。[ちなみに、この護佐丸は沖縄では歴史上人物ではかなり有名で、第一尚氏王統建国の功臣で、尚氏6代の王に仕えながら晩年に謀反を疑われて自害し、忠節を全うしたと伝えられる。本当に反乱を起こしたとの説もある。毛氏豊見城殿内の元祖。] 長兄は頓智話で有名な伊野波親方盛平 (ウェーカタせいへい、モーイ親方)。識名は、1651年に生まれ、中国名は毛起龍。当初、父親の「伊野波」姓であったが、後に真和志間切の総地頭となり、「識名」姓を名乗った。1666年に首里王府に出仕し、1702年、51歳の時に王府最高職の三司官となって10年間在職した。この間、1688年に進貢正使として中国に渡航し、1699年には年頭使者として鹿児島に赴いた。鹿児島滞在中の随筆や和歌をまとめた『思出草』は琉球最古の擬古文として有名である。
三司官時代には『おもろさうし』(1710年) や『混効験集(こんこうけんしゅう)』(1711年) の実質的な編さん責任者となった。1715年死去、享年65。識名家は、後に子孫は、国頭 (クンジャン) 間切の総地頭となり、国頭(くにがみ) 姓を名乗っている。
Sunga Hija Public Well 寒水川樋川
旧寒水川村 (スンガーむら 現在の寒川町) にある樋川。この樋川は、村ガー (共同井戸) として住民の大切な生活用水で、石垣は半月形に積まれた3段のあいかた積み。泉水を溜める池は浅く、あふれた水は水路を流れ下方の四角の池に溜まるようになっている。井戸の縁石は大きく石敷と一緒になっている。石の表面は丸みをおびており、水汲みによってすり減ったのだろう。高台で水が豊富なのは、井戸の北側が琉球石灰岩の地層で、その下にクチャ(泥岩)層があり、雨が降ると石灰岩の中をとおった水はクチャ (泥岩) との接点から出てくるため。
Memorial Tower of Icchu Kenji 一中健児の塔
玉陵ビラ (たまうどぅんびら) の坂を登って直ぐに沖縄戦の慰霊塔が有る。
(ここから見る那覇市 大都会)
今度は一中 (現 首里高校) の生徒の慰霊塔。この間は、二中 (現 那覇港高校) の慰霊碑を訪問した。今からという年に命を散らした、さぞ無念だっただろう。第二次世界大戦時、沖縄には中等学校が男女あわせて21校あった。沖縄戦には、沖縄県立第一中学校、沖縄師範学校、沖縄県立第一高等女学校などから男女学徒が戦場に動員され、男子学徒は上級生が鉄血勤皇隊に、下級生が通信隊、また女子学徒は、ひめゆり学徒隊などの看護隊に編成され従軍した。結局、約2000人もの学徒が沖縄戦の犠牲となった。沖縄県立第一中学校 (現在の首里高校) では5学年、4学年、3学年の生徒達が前述の鉄血勤皇隊が編成され、第五砲兵司令部に配属、数百名が命を落とした。1945年の激しい戦火の中、5学年と4学年の同時卒業式が行われた沖縄県立第一中学校寄宿舎 養秀寮 の跡地に建てられている。
Site of Kanagusuku Village School 金城村学校跡
首里金城町石畳道の入り口は上も下も石畳の坂道、上には島添坂道 (シマーシビラ)下が 城町石畳道。ここに金城村学校跡がある。1835年に創設というから、日本の江戸時代末期にあたる。
Shuri Kanagusuku Stone Paved Road 首里金城町石畳道
ここに自転車を停めて、下の城町石畳道を行く事にする。 この首里金城町石畳道は琉球石灰岩の平石の石畳と石垣でおおわれており、昔ながらの首里の村の様子がうかがえる。道は旧な坂道になっている。自転車での通行は無理だ。平石の表面は小叩きに仕上げられて、すべり止めの溝が彫られるなど、歩きやすいように工夫がなされている。道路沿いの屋敷は”あいかた積み”とよばれる手法で積まれた石垣に囲まれて、中には赤瓦屋根の木造住宅が見られる。
首里城公園の南側斜面に位置し、14世紀から19世紀にかけて栄えた琉球王朝時代の城下町である金城町にある。首里城から国場川の真玉橋に至る長さ4 km、総延長10 kmの官道であった真珠道(まだまみち)の一部で、琉球王国尚真王の治世である1522年頃にその建造が始まった[1]。第二次世界大戦の沖縄戦で真珠道の大半は破壊され、コンクリートで舗装されていたが、1983年(昭和58年)に歴史的地区環境整備事業によって再び石畳に整備された[1]。金城町に現存する238mの区間が首里金城町石畳道としてその姿を現在に伝えている。行政上の道路の路線名を那覇市道金城2号といい、別名シマシービラともよばれる。
すこし下り脇道に入るとパワースポットがある。
Uchikanagusuku Taki 内金城嶽境内 / Shuri Kanagusuku GiantBishopWood 首里金城の大アカギ
首里城跡の南、内金城嶽境内 (ウチカナグスクタキ) に推定樹齢200年以上と思われるアカギの大木が5本自生している。幹の高さは約20mほど。アカギは沖縄県内では普通に見られる樹木だが、このような大木群が住宅地に見られるのは内金城嶽境内のみ。
内金城嶽
手作りの案内板。左が内金城嶽境内、右が内金城嶽のところにあった。
Kanagusuku Muraya Village House 金城村屋
金城町石畳道を下ったところにある家屋。古民家風の家屋には首里金城町の旗頭 (はたがしら) が飾られている。昔はこんな風の民家がここには多くあったのだろう。通常は地元の青年団や町内会の集会所として使われていますが、一般開放もされているので、ここで昼食を取りながら休憩をする。村の人が時々立ち寄るが、その度に笑顔で挨拶をしてくれる。
Kanagusugu Ufu Hija Public Well 金城大樋川
金城村屋の隣にある。
Naka nu Gaa Public Well 仲之川
上の写真の上り坂の脇道を少し登ったところにある。
Usuku Gaa Public Well 潮汲川
仲之川から、更に脇道を今度は下ると、別のガー (共同井戸) がある。伝承によると大昔はこの井戸の近くまで入江になっていたそうで、この井戸の水もかつては塩気があったので、ウスクミガー (
潮汲川) と呼ばれ、それが訛ってウスクガーになったという。水量も豊富で昔から地域の飲料水となり、あふれ出る水は斜面の裾に広がる水芋田 (俗称下田 シムンター) の灌漑用水となっていた。現在も水に対する民間信仰の拝所となっている。沖縄の人にとって、水は大切。それ故に信仰の対象となって、必ずと行っていいほど井戸には拝所が設けられている。
Aragami Nuka Public Well 新垣ヌカー
琉球王府時代の末期、この井戸のある屋敷の主であった新垣恒佳 (あらかきこうか) が男児の誕生を祈って私財を投じ、道に面する屋敷の一角に地下タンクを掘り、屋敷内の奥の井戸から泉水を導き入れて地域の人々の飲料に寄与したと伝えられている。一篤志家が私財を投じて公共福祉のために掘った井戸であり、地下水路を作って泉水を導き入れた特色のある井戸。
脇道から首里金城町石畳道に戻り、下の入り口まで歩く。
Kanagusuku Bashi Bridge 金城橋
首里城から真玉道を通って金城町石畳道を下ったとろが、この金城橋。金城橋は琉球王国時代、首里から識名の間を走る金城川 (カナグシクヌカーラ) と安里川の上流に架けられた橋。1677年頃木製の橋から石橋に建て替えられたが、1809年の洪水で損壊、翌年もとの場所から少し下流に再建された。この時の碑文が、橋の南側に重修金城橋碑文の碑として建立されている。1945年の沖縄戦で破壊され、現在の橋は復元されたもの。橋を渡ると識名園 (南苑) のある識名方面に向かう識名坂に繋がる。
(識名坂)
ここから、金城町石畳道を登って、自転車を停めていた所まで戻り、次のスポットの崎山公園に向かう。
Remains of SakiYama Baba 崎山馬場跡
昨日は龍潭辺りの松崎馬場跡に行ったが、ここがもう一つの王家御用達の馬場。東西約200m延びる道路では馬術訓練などが行われていた。東側をウマウィーヌカラジ(馬追の頭)、西側をウマウィーヌチビ(馬追の尻)と呼んでいた。国王が馬術訓練をする様子や崎山村の綱引きを見物する際には御桟敷 (ウサンシチ) が設けられたそうだ。この馬場のみちは崎山馬場ギャラリーとなって彫刻作品などが展示されている。
ここにも井戸跡があった。名前は分からなかった。
ここから見える首里城の城壁
Sakiyama Park 崎山公園
この公園は標高130mほどあり、那覇市が一望できる。
首里城も反対側に臨める。
Sakiyama Utaki Shrine 崎山御嶽
王府時代、首里大阿母志良礼が仕えた南風之平等 (はえのひら) の御嶽の一つ。琉球国由来記 (1713年) によれば、那覇にある波上宮の縁起に関わる崎山里主の屋敷だったとされている。崎山里主の墓と言い伝えられている東姓拝所が境内にある。御嶽の門は、もとは切妻破風屋根の石造アーチ門だが沖縄戦で破壊され、現在ではコンクリートづくりの門になっている。
Sakiyama Hija Public Well 崎山樋川
元旦に王様へ献上する水が汲まれた樋川。
Sakiyama Sites 崎山遺跡
公園の入り口付近に旧石器時代の遺跡がある。
Zuisen Awamori 瑞泉酒造
崎山公園柄少し外れたところに造り酒屋がある。この崎山は水が豊富だった。球王府時代、首里三箇にのみ許された泡盛製造所があった。現在はこの崎山地区でひとつだけ残っている。瑞泉酒造で1887年 (明治20年) の創業。首里城の数ある門の中の一つ、瑞泉門のもとから湧き出る泉を「瑞泉」といった。い、瑞泉とはこの美泉にあやかり命名している。店の中は見学ができるようになっている。行ってみた。係員さんが丁寧に説明をしてくれた。泡盛は一説では米を原料で使用する前は粟を使っていたことから泡盛と呼ばれている。 (他の説もあり、蒸留の時に泡が出るのでという) 沖縄のお米を利用しているのかと聞くと、全て輸入のタイ米を使用している。これは昔からそうだった。沖縄では米は作られていないのか… お店なので多くの売り物の泡盛がある。全て泡盛。昔の製造法を試して琉球王朝時代の泡盛の製造にせいこうしたそうだ。泡盛は3年以上経つと古酒と呼ばれるそうだ。スーパーでは数百円から色々な泡盛が売られている。値段は年数と度数で大体決まるそうだ。試飲コーナーもあるのだが、自転車ので遠慮した。泡盛は度数が高いから少しの量でも酔ってしまいそうだ。
展示室にはパネルで泡盛の説明があった。
崎山地区を後にして、この台地のもう少し先端の方に行ってみる。
Amagoi Taki Shrine 雨乞嶽
首里台地の東端の丘にある御嶽跡。昔、干ばつの時に国王がこの御嶽で雨が降るのを祈ったので雨乞嶽と呼ばれている。
Remains of Uchaya Udun 御茶屋御殿
御茶屋御殿 (別称東苑) は国王が遊覧し、外国の使臣を招いて宴などが開かれた王家の別荘。1677年 (康煕16) 年に建設されたと記されている。識名園が首里城の風水上の南 (方位の西) に位置している事から南苑とも呼ばれたのに対し、御茶屋御殿は首里城の風水上の東 (方位の南) に位置していた事から東苑とも呼ばれた。第二次世界大戦で園内の建造物は全て破壊された。激戦地だったために土地を購入する者がなく、カトリック教会が敷地を購入。現在、跡地には、カトリック首里教会及び付属幼稚園が建っている。
Uchaya Uruno Stone Lion 旧御茶屋御殿石造獅子
古いシーサーが残っている。
Uchaya nu Billa 御茶屋の坂
坂上に御茶屋御殿があったことに由来する坂名。御茶屋御殿は琉球王府の迎賓館、風水上では首里城の東に位置していたので東苑ともよばれた。
Tomb of Chinen Sekka 知念績高の墓
琉球王国の三線奏者。1761年首里の桃原村に生まれ、百姓だったが、歌と三線の才能があり中国からきた冊封史達の前で士族達と一緒に演奏した事もあり、ついには士族にもとりあげられた。弟子には安冨祖流を開いた安冨祖正元、野村流を開いた野村安趙がいる。屋嘉比の作った楽譜「工六四」(くるるんしー)を改良し、「芭蕉紙工工四」(ばしょうしくんくんしー)を完成する。
知念は当時、まれにみる声楽家で、かつ理論家でもあり、屋嘉比の当流を繊細で技巧的なものに大きく変化させた。
Hijigawa Bashi Bridge ヒジ川橋及び取付道路
ヒジ川橋は、首里崎山町にあった御茶屋御殿から識名園に至る途中の安里川に架けられた石造単拱橋 (アーチがひとつの橋)。ここを流れている安里川には金城ダムがある。この安里川は度々氾濫し、大きな被害をもたらした。洪水対策として建造された。
金城ダム