Okinawa 沖縄の旅 Day 24 (25/08/19) Shuri (4) 首里 その4
Sueyoshi Park 末吉公園
300th Memorial of Tamagusuku Chokun 劇聖王城朝薫生誕300年記念碑
Tomb and Graveyard of Ginowan Udun 宜野湾御殿墓/墓域
Ruins of Sueyoshi Gu Shrine 末吉宮跡
Site of Artist Village 美術村跡
Birthplace of Tamagusuku Chokun 王城朝薫誕生ノ地
Kara Gaa 加良川
Adani Gaa 安谷川
Birthplace of Haneji Chosei 羽地朝秀生家跡
Former Nakada Dunchi 仲田殿内跡
Adani Gaa Daki 安谷川御嶽
Tinsan 天山陵
Remains of Tennoji Temple 天王寺跡
Tennoji Gaa 天王寺井戸
Ringumui/Rengein Temple 蓮小堀/蓮華院跡
Banshoin Temple 万松院
Kenzenji Temple 建善寺跡
Sueyoshi Park 末吉公園
今日の最初の訪問地。末吉公園へはゆいレールの小島駅のそばを流れている安謝川を遡って所にある。川に沿ってそこまで行く。この公園は山の斜面にあり、入り口付近が標高17mだが公園の最高地は標高95m。遊歩道は石畳道だ。雨などで濡れているととても自転車では登れない。幸いここ数日は晴天だったので、石畳は濡れておらず何とか頂上までたどり着いた。この公園には史跡が3つある。頂上までの道の途中にその地に立ち寄る。
劇聖王城朝薫生誕300年記念碑
この首里儀保出身の行政官であり劇作家でもあった。彼の活躍した時代は第二尚氏尚敬王の治世の時。琉球王朝にとって舞踊は非常に重要なシーンを務め、明からの冊封使の接待には必ず琉球舞踊や音楽が登場する。彼もまた踊奉行の任を与えられ冊封使の対応を行った。彼が劇聖と呼ばれるのは、琉球で始めて創作舞踊を完成させた事にある。ついこの間まで見ていた大河ドラマの琉球の風でも主人公の弟がこの琉球舞踊を極めていくストーリーが含まれている。日本でも能など接待に使われていたが、その重みは琉球の方が遥かに優っていると思える。踊りの種類は違うのだが、沖縄の人は何かあると踊り出す。体の中にリズムが染み込んでいるのだろう。音楽が流れれば自然と体が動く。踊りで気持ちを素直に表現できる人達は素晴らしい文化を知らぬ間に継承しているのだろう。
ここで沖縄の伝統文芸の組踊りというものを知った。見たことはない。この王城朝薫が創始者と言われている。組踊とは、せりふ、音楽、所作、舞踊によって構成される歌舞劇であり、首里王府が中国皇帝の使者である冊封使を歓待の目的で始められた。1719年、尚敬王の冊封儀礼の際に行われたのが初演。朝薫は江戸や薩摩に度々訪れ、能や歌舞伎を鑑賞している。琉球古来の芸能や故事をベースに、大和芸能と中国戯曲を取り入れて作り上げられている。組踊りなどは王朝文化で一般庶民の物ではなかったが、明治12年の廃藩置県で、琉球王朝が廃止され、その王朝組織に属していた役者などは失業となり、町中での上演に移り、庶民の間に広がった。しかし、映画やテレビの新しい娯楽の前に衰退した。なんとか復興して現在に至っている。この点は、日本の能や歌舞伎とその変遷においてよく似ている。
ここから残りの2つの史跡への道が出ている。もう遊歩道ではなく写真の様な密林の中の細い石畳道を行くことになる。
Tomb and Graveyard of Ginowan Udun 宜野湾御殿墓/墓域
昨日見たハブ注意の看板を思い出した。なるべく、道の真ん中を注意しながら進む。草むらには入らない様にして、覆いかぶさってくる木の枝にもチェックしながら進む。宜野湾御殿墓は立派な亀甲墓だ。周りにも数々の墓が有る。この墓は琉球王朝最後の王 尚泰の第二子 尚寅のもの。当初は具志川内殿 (尚貞王第三子 尚綱)の墓であったが、宜野湾御殿に譲渡された。沖縄戦で破壊されたものを復元している。
Ruins of Sueyoshi Gu Shrine 末吉宮跡
末吉宮は琉球八社の一つ。尚泰久王の時代の建造。沖縄戦で破壊消滅していたが、本殿は昭和47年に建立されたもの。
社の崖下には拝所がある。
ここで変わったお墓に遭遇した。十字架のある亀甲墓。亀甲墓を最初に見た時には琉球の土着宗教の物かと思っていたが、今では生活の一部になっており、宗教が何であれ問題にならないのだろう。沖縄の宗教観は現代の本土の人達がもっているものとは少し違うような感じがする。
末吉公園の頂上から公園を抜けると住宅街。丘の上にある。真下にゆいレールが走っている。首里は、兎に角、丘が多い。ここには小綺麗な家が建っている。中産階級 (?) の人達が住んでいるのか? この一画に美術村跡なるものがあった。
Site of Artist Village 美術村跡
戦後、沖縄の芸術家がここに集まってきて村を作った。
ここに住んでいた画家の作品画家パネルで紹介されていた。沖縄をモチーフにしたものが多くある。
美術村から首里城方面に向かう。
Birthplace of Tamagusuku Chokun 王城朝薫誕生ノ地 / Kara Gaa 加良川
先程、末吉公園で記念碑があった王城朝薫の生誕の地に出くわす。隣が加良川 (カラガー) と呼ばれる水場跡。写真を撮っていると、88才のおばあさんに話しかけられた。那覇生まれで醤油を作っていた家に育ったのだが、戦後、那覇は米軍の管理下に置かれ、この首里に住み始めたという。まだ学生だった。今の首里高校の前身の一中に通っていた女学生で、毎朝この加良川で天秤棒で前と後ろに桶を担ぎ、その日の水を運んでくるのが日課だった。戦争で水道は破壊されてので暫くはこの加良川通いが数年続いたそうだ。湧き水で飲料水や洗濯に使っていた。加良川を通る時は手を合わせ拝んで行く。この水でどれ程助けられたかという。水場 (川=ガー) には拝所が殆どの所にある。水に対しての感謝が現れているのだろう。天秤棒を担いでいた左肩は今でも健在で、ドッサリ買い物をしてもまだまだ左肩に買い物袋をかければ大丈夫とケラケラ笑っていた。首里は那覇の様にゴミゴミしていないし、高台で快い風が吹くので住みやすい。ただ、特別な買い物は那覇に行くそうだ。首里よりもはるかに店も多く、多くの良い商品がある。ここ4日間首里を走ったが、那覇に比べると、住宅街で大きなショッピングモールもない。コンビニの数も少ない。ベッドタウンという感じだ。しばらくおばあさんと世間話をし、別れ際には沖縄にすみなさいよ〜 いいところだよ〜人も気さくだよ〜と言われた。
Adani Gaa 安谷川
別の水場があった。
Birthplace of Haneji Chosei 羽地朝秀生家跡
琉球王国時代の政治家羽地朝秀の生家跡。羽地家は、第二尚氏王統の第三代尚真王の第一子の尚維衡浦添王子朝満を始祖とする小禄御殿家の分家で、羽地間切を領有した名家。羽地朝秀は、羽地按司家六世として1617年に生まれ、中国名を尚象賢という。1650年に尚質王の命を受け、王国の正史 中山世鑑を編集。たびたび鹿児島に上国し、薩摩側と信頼関係を築いた。1666年に首里王府の最高ポストの摂政に就任し7年間務めた。この間に羽地の政策は、行政機構の改革、農村支配の見直し、王府祭祀の合理化など、政治・経済・社会全般にわたった。その布達文書は後に羽地仕置としてまとめられ、羽地の死後も王府行政の指針となった。1675年死去、享年59。墓は首里平良(しゅりたいら)町の丘陵にあり、1922年 (大正11) に沖縄史蹟保存会の手によって墓碑が建てられ、現存している。
Former Nakada Dunchi 仲田殿内跡
琉球王国 時代の士族・仲田家の屋敷跡。屋敷を囲む大きな石垣と庭園が往時の雰囲気を伺うことができる。昔からの格調ある玄関の石門、踊り場の石畳も健在で、庭にある井戸には二カ所に水を汲むスペースがあり、男女別々の専用の水浴場になっていたようである。 現在は琉球王国末期 (安政年間) に創業した琉球王家御用達であった玉那覇味噌醤油になっている。
Adani Gaa Daki 安谷川御嶽
安谷川御嶽は当蔵村の御嶽で、嘉慶19 (1814)に大修理をしたことが碑文に刻まれているので、それ以前からあった。首里大阿母志良礼 (オオアムシラレ) が管轄する御嶽のひとつ。御嶽の奥には鍾乳洞があり、本来はこの場所を拝んでいたのではないかと思われる。
Tinsan 天山陵
天山とは、天斉山の略称で、第一尚氏の国相を務めた懐機によって名付けられた。伊波普猷は天山陵を”天山のようどれ”と呼んでいる。第一尚氏が滅亡した後、第二尚氏の尚清王の五男である北谷 (ちゃたん) 王子に下賜され、天山御墓と呼ばれ、その後も北谷家の墓として使用された。残っている文書から1439年 (正統4年) 以前には造られていた事がわかる。天山陵が第二尚氏の尚円王による焼き討ちに遭う前に、尚徳王の近親者らは、王たちの遺骨を運びだしたと言われている。天山陵が焼失した後、第二尚氏の一次的な陵墓として使用され、1637年 (崇禎10年) に尚永王の妃が、1663年 (康熙2年) に尚寧王の妃が葬られていた。天山陵は、戦前まで姿を保ち、墓庭は空き地のまま放置されていたが、沖縄戦で破壊。現在は私有地となっている。
Remains of Tennoji Temple 天王寺跡
琉球王国時代の臨済宗の寺院跡。第二尚氏王統の始祖尚円が成化年間b(1465~1487) に創建。尚円が王位に就く前の邸宅で、第三代国王尚真の生誕地。後に、国王は円覚寺、王妃は天王寺、未婚の王子・王妃は天界寺に祀られたことから、円覚寺・天界寺とともに尚家の菩提寺の一つ。国王の元服・即位の際には三ヵ寺を行幸するのが例であった。1879年 (明治12) の沖縄県設置後に尚家の私寺となったが、その後払い下げられ、仏像・位牌・梵鐘などは円覚寺に移され、本殿である方丈殿は、1903年 (明治36) に女子実業補習学校 (後の島尻女子工業徒弟学校) の校舎として小禄間切に移築された。1933年 (昭和8) に寺域の西半分を日本メソジスト首里教会が購入し、会堂を建立。1945年 (昭和20) の沖縄戦後には、日本基督教団首里教会として現在に至る。現在は、首里教会入口と隣接する民家の後方に、天王寺の石垣が残されている。
Tennoji Gaa 天王寺井戸
首里三ケ寺のひとつである天王寺の井戸。天王寺創建時、寺域に井戸がなかったため、この井戸を使い始め、当蔵村の村ガー (共同井戸) として人々の生活用水にも利用された。
Ringumui/Rengein Temple 蓮小堀/蓮華院跡
蓮小堀 (リングムイ) は、首里城の北東に位置する人工の池。尚巴志王代 (1422 ~ 1439年) に、首里城整備のために土を掘り出した跡が池になり、蓮に覆われていたことから名付けられた。1945年 (昭和20) の沖縄戦の後も蓮小堀は残っていたが、1958年 (昭和33) に琉球大学グランド造成のために円覚寺裏山が削られた際、その土砂で、蓮小堀は埋め立てられた。その後一帯はバスターミナル、次いで図書館などの公共施設が建設された。蓮華院は、琉球王国時代の臨済宗の寺院で、天王寺の末寺の一つ。万歴年間 (1589~1619年) の創建だが、創建時の所在地は不明。1906年 (明治39) に糸満村に移転し、その跡地は個人所有の別荘となった。
Banshoin Temple 万松院
1613年から400年に及ぶ歴史がある万松院は、沖縄戦で焼失。その後、少しずつ復興してきた。入口には枯山水の禅の庭が造られている。
Kenzenji Temple 建善寺跡
琉球王国時代の臨済宗の寺院跡。天王寺の末寺であった。景泰年間 (1450 ~ 1456年) に第一尚氏尚泰久王が創建。1609年の薩摩侵攻後に廃寺となったが、1619年に金武王子尚久により再興され、一時は金武家の菩提寺となっていた。創建当初、寺は首里崎山村にあったが、再興時に現在地に移転した。
今日は特に暑く、少々バテ気味なのでこれで切り上げて、少し休むことにしよう。