【参考】災害運休二年 福岡県・大分県「日田彦山線」
九州の旅、二日目。今日は、「平成29年7月九州北部豪雨」被害で区間運休となり代行バスでの振替輸送が続いているJR日田彦山線の現状を見るため、夜明駅(大分県日田市)から現地を辿った。
今回の九州の旅は、この日田彦山線の現状を見たいがために計画した。
日田彦山線はJR九州が管轄する、福岡県北九州市と大分県日田市を結ぶ68.7km、24駅の全線単線路線だ(只見線は135.2km、36駅)。北九州側の区間は石炭や石灰石を門司港に運ぶために建設され、全通後は、北九州工業地帯と由布院を結ぶ最短路であったため直通の急行列車が走っていたという。*参考:Wikipedia「日田彦山線」
しかし、沿線炭鉱の衰退や北九州から福岡への中心都市交代などで沿線住民が減少し、自動車の普及が重なり、日田彦山線は利用者を減らしていった。
「平成29年7月九州北部豪雨」はそのような状況下で発生。日田彦山線は土砂流入、盛土・軌道流出、橋梁損傷など63件の被害を受け、添田(福岡県添田町)~夜明(大分県日田市)間29.2kmが不通となった。*下図出処:JR九州「平成29年7月九州北部豪雨による九大本線・日田彦山線の状況について」(平成29年7月31日)(PDF)
私は日田彦山線の復旧協議の行方に注目している。
①運休区間が福岡県(添田町・東峰村)と大分県(日田市)にまたがっている中、意思統一は計れるのか?
②運休区間に含まれる釈迦ケ岳トンネル(4,378m)の利用を含めたBRT(バス高速システム)が沿線住民にどのように受け入れられるか?
③鉄路復旧を訴える場合、沿線人口が確実に減る中、住民や自治体はどのような利活用策を示してゆくのか?
福島県会津若松市と新潟県魚沼市を結ぶJR只見線は「平成23年7月新潟福島豪雨」で大きな被害を受けた。日田彦山線と只見線は、“豪雨被害→区間運休→代行バス運行”という経緯に、事業者であるJR(只見線はJR東日本、日田彦山線はJR九州)が鉄道復旧に難色を示し、復旧後の運行経費の負担を地元に求めた点なども共通する点が多い。只見線は運休区間の上下分離という国内初の手法で復旧が決定し、日田彦山線は沿線自治体とJRとの復旧協議が続けられていて、JR側は話し合いの席で上下分離も提案している。*参考:西日本新聞「不通続く日田彦山線 九州豪雨1年、復旧工事未着手 費用負担、路線維持策……JRと自治体“綱引き”」(2018年7月8日)/九州旅客鉄道(株)日田彦山線復旧会議「第4回 日田彦山線復旧会議」 (2019年4月23日)/拙著「JR只見線全線復旧 正式合意」(2017年6月20日)
この日田彦山線の現状を見たいと思い、九州の旅を企画した。現場を見る事で、今後の復旧協議の進行を具体性を持って考える事ができ、“地域と鉄道”について考えを深める事ができると考えたからだ。更には、巨額の公費を充てて復旧され一部区間運営される只見線の恵まれた環境と今後の課題を再確認したかった。
旅程は、全線乗車ではなく、路線終点の夜明駅から全運休区間を巡り、復路は添田駅から代行バスに乗って日田駅に向かう、とした。
*参考:拙著「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線復旧工事関連ー
今朝、久留米駅の西側にある水天宮を訪れ、参拝した。郡山市にある二つの水天宮の本宮だ。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)をはじめ、平氏政権が崩壊した治承・寿永の乱(1180年ー1185年)の最後の戦いの場である壇ノ浦で入水し幼い命を落とされた安徳天皇、その母・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、平清盛の正室・二位尼(平時子)の四祭神が祀られている全国にある水天宮の総本宮だ。*参考:全国総本宮「水天宮」御祭神・由来
久留米市と郡山市は姉妹都市提携していて、郡山には水天宮(喜久田町)と久留米水天宮(久留米町)の二宮があり縁が深い。
郡山市は、明治維新後の旧士族救済策の一つとして行われた「国営安積開拓」事業の舞台となった。この先鞭をつけたのが旧久留米藩士で、全9藩中最多の141戸585人が移住(1878(明治11)年11月)。その彼等のために立てられたのが故郷・久留米の水天宮で、開墾地が南北に分かれていたため、喜久田町(北)と久留米町(南)に御分霊社が建てられたという。この「国営安積開拓事業」が縁で、郡山市と久留米市は1975(昭和50)年8月3日に姉妹都市提携した。*参考:日本遺産ポータルサイト「未来を拓いた「一本の水路」-大久保利通“最期の夢”と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代-」
宮は筑前川沿いにある。有明湾に面する河口までは約30km。
私は本殿に参拝し、水天宮を後にした。
久留米駅に到着。自転車を折り畳み、輪行バッグに入れ、駅舎に入った。
この愛車は、3日前に福島から、久留米市内のクロネコの営業所受け取りにして発送していた。送料は約4,100円だったが、運休区間を巡るのは自転車が一番良いと思い、只見線運休区間でも乗り慣れたこの折り畳み自転車、Routeを使う事にした。
改札を通り、高架線のホームに移動し、まもなく入線した列車に乗った。
7:40、久大本線直通・日田行きの列車が久留米を出発。
列車は住宅地をしばらく走った後に鹿児島本線と別れ九大本線に入り、東に進み、御井を過ぎると田園と果樹園の中を進んだ。
8:30、日田彦山線の終点となっている夜明に到着。所在は大分県日田市。
「平成29年7月九州北部豪雨」被害で大きな被害を受けた日田彦山線は、ここまでが運休区間になっている。日田彦山線ホームのレールは錆付き、明らかに列車が走っていない事が分かった。
駅舎に向かうため連絡橋を渡る。橋上から日田方面を見る。左側のレールは錆付いていた。
運休前、2008年にここを訪れた時、日田からやってきた列車はポイントを通過し、このレール上を走り、日田彦線のホームに入ってきていた。日田彦山線の列車の全ては、運休直後も夜明けから大分寄りに二つ目となる日田が発着駅となっていた。鉄路復旧され、この光景が再び見られるだろうか。
駅舎は建替えられていた。
11年前は、開業当時の駅舎だった。
駅舎内は外装内装とも木が多く使われた、落ち着いた造りになっていた。さらに、トイレは明るく広々として快適な空間になっていた。旅人にとっては、嬉しいホスピタリティだ。
駅は誰にでも存在を知られた公共施設で、交流の拠点の筆頭だ。利用者の少ない無人駅を、このように建て替えるJR九州の姿勢に地域を大切にする姿勢を感じた。我が福島県を管轄するJR東日本も、一考して欲しいと思った。
駅舎内の壁を見ると、掲げられた時刻表の日田彦山線の欄は空欄になっていた。
運休区間各駅の代行バス乗降場の案内は、A4判のパウチされた用紙で示されていた。
駅舎を出て、11年前と同じ階段を下りた。
国道沿いには地元・日田バスのバス停があった。
ここは、代行バスの“夜明駅”も兼ねていた。列車同様、代行バスも、二つ先(大分寄り)の日田駅発着になっていた。
9:08、しばらく周辺の様子を見た後、輪行してきた自転車を組み立てて、夜明駅を出発した。
一旦、国道386号線に下り、夜明三叉路手前で市道に入り、九大本線のガードを潜り、日田彦山線の川崎踏切に立つ。運休区間の路盤を見ると、レールは錆付いていたが、列車が走っても違和感の無い空間だった。
これから、添田まで、運休区間の各駅を巡ってゆくが、JR九州の資料を見ながら進んだ。
夜明集落を抜け、小さい架道橋を潜り抜けると、明円寺保育園前後の日田彦山線の法面は綺麗に草刈されていた。
「平成29年7月九州北部豪雨」で激流となった大肥川沿いを進み、法面に設けられた急坂を進み住宅踏切に立つ。運休して2年の月日を感じた。
大肥川を渡り、田んぼの間を進み、国道211号線に入る。前方に九州横断自動車道の高架が現われた。
まもなく、市道に右折し進むと茶屋ノ瀬新橋からは大肥川の護岸工事の様子が見られた。
日田彦山線と大肥川の間の道を進むと、豪雨で流出した橋があった場所にはバリケードが設けられ、川幅拡張と護岸工事中を示す看板が置かれていた。発注者は大分県日田土木事務所。
手つかずの大肥川の浅瀬をよく見ると、コンクリート製の護岸壁が横たわっていた。豪雨当時の、この浅瀬を激流に変える程の雨量と、水勢と水圧の圧倒的な力を想像した。
平原踏切から路盤を見る。この付近は大肥川から離れている事もあり被害がなかったようだ。
9:37、今山駅に到着。列車が走っていても違和感の無い状態だった。
駐輪場には一台の自転車が置かれ、タイヤは両輪とも空気が抜けていた。
今山駅を後にして、中楚県道踏切、山口踏切で日田彦山線と交差しながら道を進むと、北西の畔倉山(474.8m)に筋が見えた。
よく見ると、長大な地滑り跡だった。豪雨の被害だろうか。
釜戸橋を渡り、再び大肥川を超えると、国道211号線のガード下ある大鶴踏切が見えてきた。
付近の路盤は流出して、新しい砂利が敷き詰められていた。
10:04、少し夜明側に戻り、大鶴駅に到着。レールは夏草に覆われていた。
2010(平成22)年に建替えられたという駅舎。夜明駅と同じようなデザインで、味があった。
駅の脇には製材所もあり、“日田杉”の産地、林業のまちである事が実感できた。
国道211号線に出て名本橋に進む。銘板には国鉄日田彦山線の文字が記されていた。
橋上から見下ろすと、草に覆われたレールが見えた。
国道を100mほど進み、市道に入り瀬部踏切に着く。路盤は両側とも草に覆われ、立入禁止のバリケードが置かれていた。
ここからさらに200mほど進むと橋桁が置かれていた。豪雨で大きな被害を受けた竹本橋梁だ。
大肥川に残された橋脚が痛々しかった。
河岸にも大型土嚢が詰まれていた。
竹本橋梁は豪雨時の激流には耐えたが鉄路復旧が決定した場合、工費圧縮で架け替えから修繕で済ませる案があるという。橋桁が地面に置かれていたのは、修繕で再利用されるためだろうか。
国道211号線に戻り、北上すると竹本橋梁の下流域を見る。護岸工事が進めれていた。
この付近は、大肥川の越水が路盤の盛土を流し去るなど、大きな被害もあったという。「第1回 日田彦山線復旧会議検討会」で使用された会議資料には、この竹本橋梁付近では河川改修の他、捷水路を新設し大肥川の流量を低減する工事の概要が記述されていた。
鉄道の復旧は決定していないが、鉄路以外、周辺の住宅や農地などに被害があったため行政(国、県)が“次の水害”を起こさない対策に乗り出している。
沿道には材木店の看板が目立ち、大小の木材置場が見られた。
国道を左折し、竹本橋梁から400mほど上流にある白岩橋梁を見る。豪雨による大きな損傷はなかったようだ。僅かな距離と河川上の位置などで被害に差が出る。自然災害の不確定さを思った。
国道に戻り、北上し大分県から福岡県(東峰村)に入る。県境を示す標識は、護岸の崩落で損傷・撤去されていた。反対側、右の路側帯には大分県の標識が残っていた。
10:19、宝珠山駅に到着。ここもレールは草に覆われていた。
11年前の春、ホームの向かい側は桜の壁になっていた。
レールの先、添田方面を見ると、擁壁の工事が行われていた。目の前に住宅があるからだろう。
この宝珠山駅は九州で唯一県境に建っている。
ホームの夜明寄りに“県境の駅”という標杭が立ち、斜めに県境が記されていた。よく見ると、コンクリートの上にタイルがはめ込まれ、はっきりと視認できた。
駅舎は1997(平成9)年に改築されたというが、焼杉と漆喰風の外壁に瓦という外観もさることながら、内装も落ち着きがあり、風格があった。
駅の一部は「福井コミュニティーセンター」になっているようで、入口となるスロープには多くの植物が飾られていた。
今は無人となった窓口前にも生け花。地域住民に愛されている駅である事を感じ、心が温まった。
人が集まるという駅の性格を活かし、住民生活の中に組み込むという取り組みは只見線の利活用策の参考になるだろう。
駅舎と国道をつなぐ延田橋上には河川水位を測定する機器が設置されていた。大肥川の流れは穏やかだが、河岸の崩落具合を見ると、この装置の設置理由が納得できた。
国道に戻り少し北進すると、日田彦山線の福井橋梁があった空間が見えた。“河川復旧工事”で河道拡幅工事がされる為か、豪雨でも残っていたRC単版桁と橋脚は撤去されていた。
「第1回 日田彦山線復旧会議検討会」で使用された会議資料には、この福井橋梁付近では河道拡張を含む大肥川改良を行い流下能力を向上させるという工事の概要が記述されていた。
国道を進むと、日田彦山線のレール越しに、真新しい崩落防止工が見えた。
狭い範囲に3ヵ所もの施行箇所。人命と生活を守るのは政治・行政の役割だが、掛かる費用と影響人口、そして少子化を総合して考えると、私財補填まで踏み込んだ災害復旧・被害防止事業の在り方を考えなければならないと感じた。
10:51、大行司駅に到着。
豪雨で上部を走る日田彦山線の切取が崩落し、開通時(1946年)に建てられ、当時、旧駅員室を改修し営業していた喫茶店「匙加減」と住民の交流スペースとなっていた待合室を持つ駅舎は倒壊した。
「第1回 日田彦山線復旧会議検討会」で使用された会議資料には、この被害の概要とともに、“周辺民家の保全のため”として福岡県とJRが分担して行う復旧工事の概要が記されていた。
日田彦山線が復旧するかは未だ決まっていない。しかし、村は“地域のシンボル”として駅舎の復元を決めたとされ、新築工事が進められていた。東峰村や地域住民の熱意を感じた。*駅舎は2008(平成20)年にJR九州から村に譲渡されている
*参考:・西日本新聞「不通の列車戻ってくる前に…被災倒壊の駅舎復元へ JR日田彦山線・大行司駅 九州豪雨8ヵ月」(2018年3月5日)/朝日新聞「九州豪雨、築70年のレトロ駅舎壊す 人気の喫茶店も…」(2017年7月20日)
駅舎が無いため、代行バスの案内板は仮設の掲示板に掲げられていた。
ホームに向かうため、階段を登る。77段あるというが、半ばを過ぎると、数えるのを止めた。
ホームに着く。相対式(2面2線)で列車の行き違いが可能となっている。
ホームからは東峰村の中心部を見下ろせる。
11年前、列車から桜越しに街を見通せた印象が残っていた。当時、黄色い布が張られていたがあまり気に留めていなかった。
今回の旅で調べてみると、ここ東峰村(旧宝珠山村)は映画「幸せの黄色いハンカチ」の主演だった高倉健さんの父親が宝珠山鉱山で働き、健さんも幼少期にこの駅を使っていたという事が分かった。11年前は、もちろん健さんは知っていて、当の映画も見ていた。この事を知っていれば、また違った感覚でこの光景を眺めただろう、と悔やんだ。
駅舎を後にして、代行バスの停留所となる場所で休憩を取る。高木神社を目の前にして、自販機で冷たいジュースを飲んだ。
休憩を終え、自転車を進める。大行司橋で宝珠山川を渡った直後に右折し、日田彦山線と宝珠山川と並行して走る県道52号(八女香春)線を北上する。次駅・筑前岩屋駅に停車する代行バスは、バス停から引き返した後に国道211号線に戻り、“焼き物の郷”小石原にむかう。
11:07、コンクリートアーチ橋が現れ、坂を下りて見上げた。
松尾橋と呼ばれる日田彦山線の第二大行司橋梁(全長54.9m、径間14mの4連アーチ)だ。*参考:東峰村公式観光情報サイト「トーホースタイル」めがね橋
宝珠山川でも河川復旧工事が進められていた。
休日でも重機が動き、護岸工事が行われていた。日田彦山線はこの川と交わる事はないので、本迫川合流点の岩屋駅前橋以外に宝珠山川に関わる被害は無い。
県道を1kmほど進むと、二つめの大型コンクリートアーチ橋が見えた。宝珠山橋梁(奈良尾橋)だ。*全長79.2m・径間14mの5連アーチ橋
この先には、切取(法面)の崩落箇所があり、ブルーシートが掛けられていた。
ここから700mほど県道を進むと棚田浸水公園があった。
宝珠川の浅瀬を利用した施設で、多くの子ども達が、大きな声で楽しそうに遊んでいた。
只見線に沿う只見川はダム湖が連続するため、このような川遊び施設の設置は無理だが、支流ならば可能だろう。滝谷川、大谷川、野尻川、叶津川のキャンプ場設置を含めた川遊び施設を考える必要性を、改めて考えた。
さらに300mほど進むと、三つめの大型コンクリートアーチ橋が見え、側道に入り側に近付いた。
栗木野橋梁(金剛野橋)。全長71.2m、両端が径間10m、中央に14mの径間が3連並ぶ、5連アーチ橋だ。
栗木野橋梁を列車が通ると、このような絵になる。
第二大行司、宝珠山、栗木野、これら三つの巨大コンクリートアーチ橋に豪雨での大きな被害はなかっただ。日本の近代土木遺産に名を連ねるだけの堅牢な建造物だと感心した。ちなみに、栗木野橋梁と宝珠山橋梁は12月にライトアップイベントがあるという。*参考:東峰村観光情報サイト「東峰見聞録」めがね橋ライトアップ
只見線の細越拱橋(早戸~会津水沼間)は曲線であるため、車内からアーチ橋の様を見る事ができるが、日田彦山線のこれらアーチ橋は直線であるため、意図して見ないと自分の乗る列車がアーチ橋を走っているとは実感ができないだろう。事実、私が11年前に乗った時は、いやに開けたところを走るなぁ、とは思ったが、これほど美しいアーチ橋の上を走っているとは気が付かなった。
日田彦山線の3つの巨大アーチ橋は、稀有な観光資源には間違いないが、乗客が実感する仕掛けがなければ、鉄路復旧の根拠となる一つの材料とはならないだろう。乗っている列車がアーチ橋を渡る瞬間の写真を撮り乗客に提供する、夜明から筑後岩屋まで列車に乗った後に自転車に乗って、巨大アーチ橋を巡りながら引き返すツアーの企画などが考えれるだろうか。地元の日田彦山線を愛する方々のアイディアに期待したい。
県道沿いには棚田多く、この付近になると石積が良い景観を創っていた。
11年前に日田彦山線の列車の中から写真を撮っていた。流線形に段々とならぶ田に惹かれたのだろう。
県道をさらに北上すると、歩道の法面が崩落した跡が見られた。この小川のような宝珠山川も被害をもたらすような激流になったかと思うと、「平成29年7月九州北部豪雨」の降雨量の凄まじさ実感した。
11:36、阿弥陀堂橋に設けられた日田彦山線代行バスの「筑前岩屋駅前」に着く。周囲に「筑前岩屋駅」は見られず、路盤盛土のガードを潜り400mほど北にある。
阿弥陀堂橋欄干の中央には福岡県が設置したカメラが設置されていた。『こんな小川に...』という発想は改めなければ、と自戒した。
11:42、筑前岩屋駅に到着。路盤は夏草に覆われレールは見えず、添田寄りのホームは壊れていた。
ホームの先には、釈迦ケ岳トンネル(4,378m)の出口が上部だけ見えた。
今年4月に開催された「第4回 日田彦山線復旧会議」では、JR側がこのトンネルを専用道にしてBRT化する案を沿線自治体に提案している。
“トンネル道”の時短効果は20分と大きく、鉄道と5分違いの運行時間を実現できるとしている。乗客構成の半数以上を占める定期券利用者にとっては、受け入れに支障のない案となっている。
筑前岩屋駅の特徴は、大きな切妻屋根と“岩塊”。
この“岩塊”は、駅からほど近い、岩屋神社を含む耶馬日田英彦山国定公園内にある宝珠岩屋(福岡県天然記念物)を模したものだろうか、11年前に列車内から見た時も目立っていた。
駅前には福岡県で唯一選ばれた「平成の名水百選」(環境省)の「岩屋湧水」の給水施設があった(30Lで100円)。豪雨被害で配管が寸断され水が出なくなっていたが、約1年後に再開したという。
駅は、被災前、県道52号線から直接入る事ができたが、豪雨で岩屋駅前橋が流出し出入りができなくなった。駅前ではその復旧工事が進められていた。
代行バスは沿道人口の多い国道211号と500号を走る事もあるが、このため停留場が400mも離れているようだ。
岩屋駅前橋があった場所に行くため、来た道を引き返し、阿弥陀橋を右折し、宝珠山川に沿って県道の坂道を進み、再び北上した。
岩屋駅前橋の復旧工事現場に着く。県道と駅舎の距離は30m。
この岩屋駅前橋を破壊したのが、宝珠山川に北東から流れ込む本迫川。その激流の“通り道”には、この小さな川に不釣り合いなコンクリートブロックが積まれていた。
後で調べてみると、緊急用の“砂防ダム”となる砂防堰堤(福岡県施行)だった。*参考:国土交通省「福岡県朝倉郡東峰村における緊急的な砂防工事の実施」(PDF)
駅前から少し北進し、駅を俯瞰した。
下は水害直後の写真。大きな石が点在し、レールが押し流し、ホームを分断した土石流の凄まじさを実感できる。
これだけ細く小さな川(沢)でもコンクリート構造物を破壊破壊してしまう自然災害の脅威を考えさせられた。*下写真出処:福岡県 朝倉県土整備事務所 災害事業センターの取組み「平成29年7月九州北部豪雨における公共土木施設災害復旧状況について」
JR九州の「第1回 日田彦山線復旧会議検討会」で使用された会議資料には、福岡県の事業として、本迫川に対する復旧工事の概要が記載されていた。
筑前岩屋駅を後にして、日田彦山線から離れ、釈迦ケ岳(844m)と大日ケ岳(829m)の間にある“斫石越え”に挑む。日田彦山線は、ホームから一部が見えた釈迦ケ岳トンネル(4,378m)で斫石峠を潜り抜けてゆく。
急な坂を上り、竹地区に入る。棚田だった場所には巨石とフレコン、重機で占められていた。
更に進む。河川復旧工事現場が途切れる事はなかった。一つの住居に対する、巨大な護岸に、再び、これからの公共事業を考えさせられた。
登坂の途上で、「竹の棚田」の展望台に立ち寄る。
「竹の棚田」は“日本の棚田100選”(農林水産省)に選ばれているという。美しい眺めだった。*参考:東峰村公式観光情報サイト「トーホースタイル」竹の棚田/(一社)地域環境資源センター 農村環境部「日本の棚田百選」
棚田を見上げると、大日ケ岳と釈迦ケ岳が見え、目指す斫石峠の位置が把握できた。かなり、登らなければならない、と覚悟した。
ここからは、「平成29年7月九州北部豪雨」の猛威を痛感する風景が連続していた。
県道を、時に乗り、時に降りて押しながら自転車を進めると、集落が終わるところに浄水場があり、その向かい側に古い設備があった。
この場所は、豪雨前は木々に囲まれていたという。後でGoogleストリートビューを見て分かった。
また少し上ると、砂防ダムが決壊した跡が見られた。
ここもGoogleストリートビューで見て驚いた。
ここの下流域には土石流が作った大きな空間が広がっていた。小さな流れは宝珠山川の支流だが、密集した林を穿つほどの激流を作った事に、驚愕した。
県道を進むと、豪雨前と変わらぬ林の中に入る。陽射しが遮られて、一息付けた。
さらに5分ほど進むと、広く木々が伐採された場所に出た。宝珠山川の源流域だ。
この付近の豪雨被害前の状態も、Googleストリートビューで見たが、同じ場所とは思えなかった。
その向かい側では砂防ダムの新設工事が進められていた。
「平成29年7月九州北部豪雨」では流木が激流に乗り、大きな被害を受けたという。このため、各河川の流域では砂防ダムの改修・復旧・新設が進められているようだ。*下図出処:国土交通省砂防部「福岡県朝倉郡東峰村における緊急的な砂防工事の実施について【宝珠山川】(H29.11.30)」
同じく豪雨被害を受けた、東峰村に西接する朝倉市では、須川第一砂防堰堤が流木を約16,500㎥を堰き止め、下流域の被害を軽減したという。*出処:国土交通省 砂防部「【施設効果事例】須川第1砂防堰堤(福岡県朝倉市)PDF」
この効果を見れば、その必要性が実感できる。自然の脅威は予測困難だが、少しでも豪雨災害の被害を軽減できる砂防ダムの建造を進めて欲しいと思った。*参考:国土交通省:砂防部「宝珠山川」平成29年7月九州北部豪雨により福岡県朝倉市で発生した土砂災害に対して緊急的に砂防工事を実施します(PDF)
県道を進む。真上から照り付ける強烈な夏の陽射しに唸りながら、自転車に乗る・降りる押すを繰り返す。
大きなヘアピンカーブを抜けしばらくすると、左側の木々が疎らになった場所が現れた。通ってきた道が見え、かなり上ってきた来た事が分かった。
13:03、斫石峠に到着。
この先の斫石トンネルが東峰村と添田町の境となっていた。
トンネルを潜り抜け、また少し坂を上ると、ようやく頂部になった。ここにもフレコンバッグが置かれ土砂崩れを防いでいた。
再び細くなった県道を下ってゆく。
砂防ダムも見られた。
木々が取り除かれ、木材が使われた法面保護面も見られた。
13:28、坂を下りきり、落合地区に着く。“下山”は20分だった。
右手には棚田があった。釈迦岳トンネルで見えなかった日田彦山線は棚田の向こうを流れる深倉川の対岸上をにある。
県道を進み、途中、側道に入り深倉踏切に行く。峠越え後、初めて日田彦山線のレールを見る。
このレールは深堀トンネル、釈迦ケ岳トンネルに向かっている。豪雨の爪痕さえも見られなかった。
反対側、添田方面にも綺麗にレールが伸びていた。
県道に戻り国道500号線に入ってから日田彦山線の方を見ると、法面に架けられたブルーシートがあった。深倉川に設けられた真新しい護岸との対比に、鉄道事業者に対する公的支援の是非を考えさせれた。
国道をさらに進むと、徐々に住宅が多くなってきた。家の間から、深倉川が彦山川に合流する場所に建つ第四彦山川橋梁が見えた。日田彦山線の連続コンクリートアーチ橋の多さに驚いた。*第四彦山川橋梁(1938(昭和13)年竣功):全長64.7m・径間14mの5連アーチ橋
13:52、彦山駅に到着。行き違いのできる単式ホーム1面1線+島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームとなっている。
駅は日本三大修験道の霊場の一つである英彦山(ひこさん)の最寄で、駅舎はその中腹に建てられた英彦山神宮の奉幣殿(国指定重要文化財)を模して、造られたと言われる。*日本三大修験道:英彦山、羽黒山(山形)、大峰山(奈良)
11年前の乗車でも、朱色の柱が印象的だった。
駅頭には、大きく分かりやすい看板があった。
*出処:英彦山神宮「御由緒」
英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神(伊勢神宮)の御子、天忍穂耳命であることから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。
嵯峨天皇の弘仁10年(819年)詔(みことのり)によって「日子」の2文字を「彦」に改められ、次いで、霊元法皇、享保14年(1729年)には、院宣により「英」の1字を賜り「英彦山(ひこさん)」と改称され現在に至ってます。
英彦山は、中世以降、神の信仰に仏教が習合され、修験道の道場「英彦山権現様」として栄えましたが、明治維新の神仏分離令により英彦山神社となり、昭和50年6月24日、天皇陛下のお許しを得て、戦後、全国第三番目の「神宮」に改称され、英彦山神宮になっています。
「添田町観光ナビ」には観光モデルコースが掲載されていて、日田彦山線利用者にはわかりやすい。*出処:添田町観光ナビ URL: http://soeda-kankou.com/area01/course01.html
不覚にも宿に着いてから知ったのだが、この彦山駅は戦後間もない1945(昭和20)年11月12日に、戦争被害ともいえる大事故に見舞われたという。「二又トンネル爆発事故」だ。
二又トンネル内に保管してあった旧日本軍の大量の火薬を接収した米軍が、当地で焼却処分する際に大爆発が発生し、トンネル上部の山(丸山)は吹き飛び、付近でドングリ採集をしていた小学生29名を含め死者147人、負傷者149人を出す大惨事となった。彦山駅も被害に遭い、駅前広場で十数名が犠牲となった。 *出処:Wikipedia「二又トンネル爆発事故」
ホームから南を見ると、切通しが見られ、そこに山があったと思うと、当時の被害の大きさに愕然とした。この切通しの南側には“爆発踏切”があり、西側にある昭光寺には慰霊碑があるという。
彦山駅を後にして、北上を開始。添田駅を目指す。国道500号線は彦山駅前で英彦山方面に向かうため、再び県道52号線を進んでゆく。
しばらく進むと、側道に多くの車が停められていた。自転車を止めて、彦山川を覗くと多くの親子連れの姿があった。整備された河岸は真新しく、豪雨後に作られた遊び場だろうと思われた。
県道を進むと左側に日田彦山線の斜面が崩落している場所があった。ブルーシートは破け、運休区間の悲哀を感じた。
更に進むと、彦山川に架かる日田彦山線の橋が見えた。第三彦山川橋梁だ。豪雨では流木で橋桁が損傷したというが、一見、大きな被害は無さそうだった。
県道に戻り、次駅の入口を探す。代行バスのバス停があり、その前に細い路地があった。入って行く。
14:36、豊前桝田駅に到着。東峰村も添田町も福岡県だが、旧国名は東峰村が筑前、添田町は豊前になっている。
県道に戻り、しばらく自転車を進めると、道の駅「歓遊舎ひこさん」が見えた。地元の野菜を中心に販売する物産館とレストランが併設されている。
この敷地内に駅がある。入口の小さなゲートが見えた。
14:47、歓遊舎ひこさん駅のホームに到着。道の駅の開業から遅れる事約2年半、2008(平成20)年3月 に開業した。駅を併設した道の駅は、JR九州関連ではここだけだ(駅近接は道の駅「阿蘇」がある)。
敷地は広く複数の施設があり、また、目の前の流れる彦山川の川辺は野田河川公園になっていて川遊びができるという。
遊園地(子供わくわくパーク)の様子。 *写真はモノライダーのレール
道の駅の隣には町の温泉保養施設「クアハウス ハピネス」(指定管理者:添田町社会福祉協議会)があった。
この道の駅と温泉保養施設は日田彦山線の生活利用者増加のカギになるのではないかという印象を受けた。食料品を中心とする買い物ができ、温泉プールとトレーニング施設で健康増進が可能で、これら施設を直結する駅から利用することができる。
運休区間の他、只見線全体にこれほど大型で駅近接の生活関連施設は無い。このため只見線は“山の只見線”として観光路線を謳い、利活用を進めている。
日田彦山線の運休区間には、日本三大修験道の霊場の英彦山だけではなく、これら生活利用者を増やせる施設もあり、うらやましい。日田彦山線の鉄路復旧を願う関係者は、駅直結の生活施設の価値を認識し、協議会で議論を戦わせて欲しいと思った。
道の駅「歓遊舎ひこさん」を後にし、少し県道を進むと、むき出しの山の斜面が見えた。
土砂崩れ現場のようで、大型土嚢で土留めされていた。
宿に戻り調べてみると、ここは昨年の豪雨で土砂崩れが発生した場所で、日田彦山線にも倒木などの影響があったようだ。近くにはプレハブの工事事務所があった。県が復旧工事を施行するのだろうか。
県道を進み、一本道に入り中村踏切付近から添田方面のレールを見る。夏草も無く、列車が走っていそうな雰囲気だった。
また県道に戻り自転車を進めると、法光寺橋から第二彦山川橋梁の全体が見えた。この橋は豪雨で橋脚が傾いたとなっているが、外観からそれは判別できなかった。
さらに県道52号線を進み、途中から路地に入り、自転車を走らせると最終目的地が現れた。
15:25、添田駅に到着。駅舎は大きいが、無人駅だ。
夜明駅を出発して6時間17分、42.8Kmを走り通し、運休区間を自転車で巡る旅を無事に終える事ができた。
ただ、“斫石越え”が炎天下ということもあり、さらに道の駅「勧遊舎ひこさん」まで食事を摂れる場所が無かったことで、想像以上に体力を消耗してしまった。
冒頭で、私は日田彦山線の復旧協議について、以下3点を注目していると書いた。
①運休区間が福岡県(添田町・東峰村)と大分県(日田市)にまたがっている中、意思統一は計れるのか?
②運休区間に含まれる釈迦ケ岳トンネル(4,378m)の利用を含めたBRT(バス高速システム)が沿線住民にどのように受け入れられるか?
③鉄路復旧を訴える場合、沿線人口が確実に減る中、住民や自治体はどのような利活用策を示してゆくのか?
今回、運休区間を訪ね、それぞれについて考えた。
①については、東峰村が釈迦ケ岳などの山地があるため、大分県日田市が生活圏となるため鉄道の廃止に影響があり、復旧以外の意思表示は難しいのではないだろうかと思った。日田市と添田町は生活利用に鉄道は絶対必要ではないだろうという印象を現地で受けた。
②の釈迦ケ岳トンネルをBRT利用することは所用時間は鉄道と変わらない事は利点だが、バスを運行させ、人口が多く窯元が多い小石原地区を通らないのは大きな議論となるだろうと思った。
③については、前述した道の駅「歓遊舎ひこさん」と温泉保養施設「クアハウス ハピネス」の生活利用と、日本三大修験道の霊場「英彦山」と複数の巨大アーチ橋を中心とする観光需要の創出が利活用の柱となる印象を受けた。
日田彦山線の運休区間の現状を見て、只見線についても考えされられた。
只見線がバス転換を望んだJR東日本の思惑を覆し、運休から6年を経て鉄道復旧となったのは、運休区間が福島県内で復旧・運営費用の捻出の意思決定が県を中心に可能だった点、敷設当時から言われていた沿線の豊かな自然が観光需創出の可能性を持っていた点が理由として挙げられる。更に付け加えれば、原発事故からに復興を名目に国からの予算措置を受けていたという背景もある。
今回、日田彦山線の運休区間を巡り、JR九州がバス転換の望んでいる報道を見ると、只見線の復旧が特異であることを再確認し、復旧後に福島県民が支え、新たな価値を生み、復旧が必要だったことを歴史的に証明しなければならないとの意を強くした。
ホームに行く。廃止された添田線に合わせて駅舎が設置されたためか、駅舎とホームは約100m離れていた。ベンチには列車を待つ客の姿があり、営業駅であることを実感した。ここから先、列車は日田彦山線の起点となる城野を越えて、小倉まで走っている。
夜明側のレールは錆付き、路盤には夏草が生えていた。只見線の只見駅の様子が思い出された。
ホームの時刻表には、代行バスの時刻表もあわせて掲示されていた。私はこの代行バスで運休区間を引き返し、日田駅に向かう。
15:35、折り返し田川後藤寺行きとなる列車が入線し、客の乗降があった。このキハ47形は、運休区間で走っていた車両だ。
駅舎に戻り、中の様子を見る。窓口が覆われ、独立式の券売機が置かれ、無人駅の佇まいだった。
代行バスの案内が掲示物の大半を占めていた。
次の代行バスの発車時刻まで時間があるため、当初の予定では図書館で日田彦山線に関する新聞記事を探そうと思っていたが、今日は休館日だった。そのため、自転車を輪行バッグに収納した後で、2時間ほど駅舎内のベンチに座り、本を読むなどして時間を潰した。
17:14、小倉行きの列車が西陽を浴びて出発した。
この列車が進む先には、見どころがある。香春駅と呼野駅から見える“山”だ。
香春駅の手前、太平洋セメントの工場越しに見える、香春岳の一ノ岳。石炭石が採掘で上半分が無くなっている。*参考:香春町「香春岳」
呼野駅付近から見える平尾台の一角にある東谷鉱山。こちらも石灰石の採掘で、切羽面積は東京ドーム25個分だという。*出処:三菱マテリアル「東平鉱山」
列車を見送った後、駅舎から北に約100mほど離れた駅横広場に向かった。
代行バスは既に待機していた。日野自動車が取り扱っている低床ノンステップバス「ポンチョ」だった。
行き先は日田駅。添田駅を出ると各駅に停車してゆくが、国道から大きく外れる筑前岩屋駅には停車しない便となっていた。
扉が開いていたため、輪行バッグを抱えて乗り込む。只見線でも使われているマイクロバスよりは通路が広く、天井が高かった。
17:50、代行バスが添田駅前を出発。乗客は私一人だった。
代行バスは、私が自転車で進んできた道を走り、彦山駅を過ぎると斫石峠へは進まず国道500号を東峰村の小石原地区に向かって行く。
小石原からは国道211号線に入り、大行司駅付近から再び日田彦山線沿いを進み、日田を目指して進む。途中、“今山駅”で高校生と思われる5人のグループを乗せた。
19:12、終点の日田駅(2015年3月に改修)に到着。ダークグレーに統一された外観と特産・日田杉の組み合わせが素晴らしいと思った。JR九州の哲学を感じた。 *九州旅客鉄道(株)「久大本線「日田駅」リニューアル」(2014年9月18日)
内部にも日田杉がふんだんに使われていて、待合室は床も天井も日田杉だった。照明も凝っていて、駅舎内とは思えなかった。
列車の出発まで時間がなかったため、駅の見学もそこそこに列車が待つ、ホームに向かった。
19:28、久留米行きの列車が日田を出発。
日田彦山線運休区間を巡る全ての予定を、無事に消化することができた。また、今日の旅では、ローカル線と地域について、知見も深める事ができた。今後、日田彦山線の復旧を巡る議論に触れる際、より具体性をもって考えられるだろうとも思った。
本来、公共交通機関は単体の収益性よりも、提供される人の移動が地域社会・経済にもたらす複合的な公益性を考慮しなければならない。
また、ICT技術の進歩による、場所を問わない働き方ができるようになり、社会の雰囲気・文化として根付きつつある事を背景に、過度に集積する都市部の人口を居住適地に拡散させ、より人間らしい生活を移動の制約を受けずに地域住民に提供できる鉄道の役割も考えなければならない時代となった。
今後、温暖化の影響で雨量が増えると言われていて、被害を受ける鉄道も出てくるだろう。そう考えると、被災したら復旧するのは当然という考えを改め、沿線の政治行政関係者や住民は被害前から『どうすれば事業者(JRなど)は被災鉄道を復旧させるだろう』という議論を行い、被害防止のための治水工事や利用者増加の取り組んでゆく必要がある。そして国レベルでは、鉄道に対する公費割り当てについて議論し、災害で途切れる事のない公共交通を構築し地域社会のBCP(事業継続計画)を支える文化を創らなければならないと思った。
(了)
*追記:2020年2月13日付け 西日本新聞紙面(1面、3面、20面)より
『「鉄道復旧」で足並みをそろえてきた被災沿線3市町村のほころびが決定的となった』(3面)
「平成29年7月九州北部豪雨」から2年7か月。東峰村を除く、JR日田彦山線の沿線自治体(福岡県、添田町、大分県、日田市)は、鉄道での復旧をあきらめ、バス高速輸送システム(BRT)での復旧を目指す、という流れになったようだ。*参考:九州旅客鉄道(株) 「第5回 日田彦山線復旧会議」 (2020/2/12)
今回の復旧会議に関する報道をみると、JR只見線のような“観光需要”よりも生活需要に応えるため、「持続的な公共交通」を主眼に話が進められてようだ。沿線自治体の大半は、日田彦山の“観光力”に活路は見いだせなかったようだ。
復旧方法の最終決定は来月(2020年3月)。引き続き、注視したい。
*追記:2020年5月18日、25日、27日付け 西日本新聞紙面より
JR日田彦山線は鉄道復旧されないことが決まったようだ。最後まで反対していた福岡県・東峰村が運休区間のBRTでの復旧を容認した事で、“決着”した。
・2020年5月18日付け 西日本新聞 夕刊1面より
『東峰村、BRT容認 県が鉄道断念 専用道延伸提案』
・2020年5月25日付け 西日本新聞 朝刊21面より
『不通3年 思いすれ違い 知事 住民に鉄道断念表明』
・2020年5月27日付け 西日本新聞 朝刊1面、3面より
『日田彦山線 BRT決着 復旧案 東峰村が容認表明』(1面)
路線が二つの県にまたがっている点は只見線と共通していたが、日田彦山線は運休区間も同様に二つの県を通り、観光より生活利用が主流であったことから、沿線自治体の人口減少と年1億6千万円の継続負担が発生するという条件下で、鉄道復旧への意思統一の調整や将来への展望構築などができなかったのだろう。
今回の日田彦山線の鉄路復旧の模索から断念の過程を見て、改めて、只見線の幸運を思うとともに、只見線を県税・市町村税で支える我々の覚悟と行動が重要であると、私は痛切に感じた。
・ ・ ・ ・ ・ ・
*「JR只見線」に関する参考資料
・福島県:JR只見線 福島県情報ポータルサイト/「只見線の復旧・復興に関する取組みについて」 *生活環境部 只見線再開準備室
・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」 (2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(2017年6月19日)
・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」
・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)