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大本柏分苑

父母の記―私的昭和の面影 渡辺京二

2019.08.28 02:33

(1)

 渡辺京二は数が少ない気になる書き手である。彼の作品では『逝きし世の面影』が好きである。幕末期に日本を訪れた西欧人の目に映った日本―失われた世界(真珠のような美しい世界)を描いたこの作品はとても衝撃だった。これは僕に前近代とか、封建時代と呼ばれてきた時代のイメージの変更を迫るものだった。少なくともそれに疑念を抱かせしめたことは疑いない。日本が近代化を受け入れ、それに歩を進める過程で失われた世界は自己の少年期やそこでそだった農村のことを想起するとき、感受できるがなかなか像にはしにくい。そこを鮮やかにやっているように思えた。彼は僕よりは一回り上の出代であり、どちらかと言えば戦中派に近いのだろうが、僕らの世代に近いという親近感もいだいてきた。彼はナショナル、あるいはナショナリズムの世界の書き手であったが、同じような対象を扱ってきた批評家に松本健一がいた。彼は僕よりは下の年齢だったが渡辺の作品と重なるものもあった。例えば北一輝についての評伝である。だが、感性的に共感を覚えるのは渡辺の方だった。この違いはなんだろうと思ったことがあるが、この本はその秘密の一端を解いてくれた。

過日、兄の三回忌で実家に帰った。随分と宅地化が進んではいるが、少し、足を延ばせばむかしながらの自然の光景は残っていた。手入れがなされていなくて竹と樹木に侵食されていたが里山もまだあった。荒れ気味の小山を歩きながら、少年期のことをあれこれ思い浮かべたが、兄の事も含めて父母のことがあれこれと思い出された。僕も父母や家族について書きたいと思った。だが、僕にはまだ無理だとも思った。恥ずかしさというか、何か制約されるものがあって、それから自由にはなれないのだろう、という気がしたのだ。だから、この作品で渡辺さんが自分にいい聞かせでもするように、これは恥ずかしいことではないと、いいつつ父や母のことを書いているのに共感した。中上健次が作家は丸裸で路上にあるような恥ずかしさを持っていると語っていることを思い出したのだが、自分ももう少し年を経たら父や母のことを書けるのだろうか、と思った。

渡辺京二は1930年生まれだ。僕の兄は1929年生まれで一回り違っていたのだが、彼は兄と近い年代の人だ。僕も生まれは戦争中だが戦前―戦中のことはほとんど記憶にない。戦争末期の空襲(三重県四日市の空襲)がかすかに記憶されている程度である。それに比すれば彼はこの昭和前期(1945年まで)を生きたのであり、父と母のことを通してこの昭和前期の面影をよく描き出している。昭和前期のことは知識としてはよく知っている。そして、多分、感覚的にも1960年代初期までの僕らの日常意識や感受性は続いているところがあったのだろう、と思う。それが失われて行くのはそれ以降なのだろうが、そのことをあらためて気づかせてくれた。

(2)

この本では当然のことながら、父母の系譜のことから入っている。これを読みながら僕は父方の祖父と母方の祖母のことは知っているが、それ以外の人たちは知らないことに気が付いた。僕の祖父が13人兄弟の末子であったことや、鍛冶屋をやっていたことは知っていた。中年になってカナダに出稼ぎに行ったことや、そこでの生活については随分と聞かされたが、それ以外の祖父の親族のことなどはほとんど知らない。この本では祖父のことはもう少し詳しく語られているが、話は複雑であった父母のことが率直に語れていることが興味深かった。彼の父母は大正期に青春をおくった人であり、結婚が大正11年というのはそれをよく示しているように思う。大正時代はそのはじめに第一次世界大戦があり、日本の社会はそれを通して生産力が飛躍的に拡大した(一説には工業生産力は5倍に、農業生産力は二倍になったといわれる)。そして、これによって日本でも本格的な都市形成がはじまった。まだ、農村や農本社会は大きな基盤をなしてはいたが、本格的な都市社会が出来て来たのである。僕は大正期、とりわけ第一次大戦後を現代史の起点として考えるが、いろいろとおもしろい現象の見られる時代だった。

父親は映画の活動弁士であったと記されている。これは映画がトーキになるまでの無声映画時代のことであるが華やかな職業であったと言われる。父親はその後も映画関係の仕事をしていたとされるが、女の出入りも派手だった、とされる。作者は父親の生態を都市遊民とよんでいるが、都市と消費(文化)活動の拡大が必然のように生み出したものである。父親は稼ぎも結構あったらしいが、女を外につくった、女遊びをすることを当たり前の事としていたらしい。それをとがめる自意識はなかった、とされている。この時代の普通の男の意識だったのだろうか。明治時代以降、日本社会にはかつての武家家族を模範とする家父長的な家族制度が降りてくる。家父長制と戸主制度である。そこでは父は父親という威厳のある、それゆえに子供には怖い、あるいは権威ある存在であったとされる。彼の父親の像はこれと違っている。父親は外での女のことはともかくとしても、子供たち(家族)には疎遠な存在であることを背負うものだったようだ。その分、家族は母親が中心になる。

「熊本で暮らしていた頃、私は父がいなくても寂しいなんて感じたことはなかった。母さえいればそれでよかったのだ。(中略)きょうだい仲もよく、本当に穏やかで心楽しい幼年時代をおくらせてもらった」(「父母の記」)。母親が中心の家族であった。父親は稼ぎも必要であろうし、それ相応のことはしていたのだろうが、家族の中では居場所はつくりにくい存在だったのだろう。熊本での暮らしとは活動弁士の仕事を失職した父親が大陸に出掛け、映画館の支配人をしていた時期である。作者は幼年期であるが、母親中心の世界を構成し、それは居心地のよいものだったとある。父親の京都時代に母親はその女関係を許容し、家族のなかにどっぷりあって伝統的な母親を演じていたように見える。母親はとてもあたまのよい女だったし、天分も恵まれた存在だったと記されているが、「新しい女」の登場などから影響は受けなかったのだろうか。「彼女は近代の女性らしく、一夫一婦の忠実な愛の理想を持っていたようなのである」(「父母の記」)。

「いま考えると、母が本当は照れ屋だったことが分かる。まっすぐな愛情表現が苦手で、反語の一つも飛ばさずに愛を伝えられぬは肥後女なのだそうだ。母はその点では典型的な肥後女だった」(「父母の記」)。肥後女の事は知らないが情愛の深い女性だったのだと思う。近代的な男女観と伝統的な肥後女が彼女のなかにあったのだろうが、父親から大陸(北京)によびよせられてからのことはいくらかかわる。

 中国大陸に渡って映画館の支配人のような仕事を父親はしているが、今でいう単身赴任のようなもので、子供三人と母親(夫人)を6年ぶりに呼び寄せている。父親の仕事は順調であったが、父親の女関係のことで夫婦は喧嘩がたえなかった、という。子供にしてみれば親の喧嘩ほどつらいものはない。親の方から見れば、子供のために喧嘩を我慢することは建前としてはともかく、できることではない。これは大なり、小なり多くの人が経験することだろうが、きついことであることにかわりはない。「私が女を一度も撲ったがことがないのは、父に撲られた母の姿を忘れなかったからだと思う」とあるが、ここはうなずけるところだ。僕も女を撲ったことはない。暴力に対する恐怖感の男と女の差異を考えればいいことだが、ここには作者の母親への愛を感じた。作者の母親への愛はこういう形でも現れたのだ。

作者はこの年から、昭和22年に大陸から引き揚げるまでの期間をすごすことになる。小学生から旧制治中学を卒業するまでのである。この時期のことは父母のことをこえた面白さがある。昭和の初期には日本人の多くが中国大陸に渡った。15年戦争の展開としての軍隊や軍関係の人は言うに及ばず、多くの民間人たちもである。ここで人々はどのようにすごしたのか、とても興味深い。武田泰淳の『上海の蛍』や『蝮のすえ』(短編集)は戦争末期から敗戦期に中国大陸にあった人の生態を描いていて面白いが、僕はそれらを想起しこのところを読んだ。そうでなくても『上海バンスキング』のような世界を連想するかもしれない。

この「父母の記」であっと思った箇所があった。それは母親が死ぬ少し前に言われたことで「お前が小さいころ、先にどんな偉い人になるのだろう述懐された、とあるところだ。佐作者は母の期待する出世に進んで背をむける生き方をしてきたことを「お母さん、悪かったね」とわびたい気持ちがある、と書いている。母親の期待する出世が世俗的なものでなかったことは確かである。それは庶民の知識に対する畏敬のようなことだったと思われる。僕も晩年の父親に似たようなことをいわれたことがある。「もう少し何かをやってくれたのでないかと」。父親からすれば、お前のことを俺なりに擁護したのも期待があってのことだった、と言いたかったのかもしれない。僕は何も答えず、下を向いただけだった記憶がするが、父や母のことを思うと一緒についてくる。僕にはまだ答えようはないのであるが…。

(3)

この本には「父母の記」以外に「ひとと逢う」「吉本隆明さんのこと」「橋川文三さんのこと」他が収められている。この中で「吉本隆明さんのこと」に触れたい。作者はある時期に吉本隆明宅に入りびたりの時期があったと書いている。1965年くらいのころの二年間とあるが、同時期も含めて僕も吉本宅にいりびたっていた時期がある。吉本が弟子と認めてくれていたかどうかは別にして、僕に取って師は吉本以外なかった。吉本の影響については自分ではわからないが、それは確かであり、作者はこう書いている。「私はある時期までこの人の圧倒的な影響下にあった。ある出来事に私がある考えを持つとする。すると、吉本さんはその出来事について私の考えたこととほとんど同じことを書かれるのだった。ということは、私の考えが吉本さんのそれにまったく同化されていた訳で,<吉本アタマ>になりきっていたと言ってよい」(吉本隆明さんのこと)。よく似た体験をしてきたというべきだろうが、僕は影響のことなどあれこれ考えないようにと思ってきた。でも、この影響は深いもので自然に考えていることの中にそれが顔を出しドキリとすることもしばしばだ。この本の中で作者は吉本を師と思う一点についてこう述べている「人が聞けば笑うかも知れぬが、人は育って結婚して子を育てて死ぬだけでよいのだ、そういう普通で平凡な存在がすべての価値の基準なのだという一点である。それ以上は言いたくないし、言えない。これが私にとって非常に重大な一点である」(吉本隆明さんのこと)。

僕も今でも何かにつけて吉本隆明さんのことを思い出すし、彼ならどう考えるのだろうか、と自然に対話をしていることがある。時に夢に出てくることもある。そして、あらゆるものを脱ぎ捨てていっても、これだけはとして残るものは何かと考えることがある。そして出てくるのは作者がここで上げている一点が残る。この文章の中で発見したことが一つある。それは、1965年の前後に彼(作者)も吉本から新聞を作らないかと声をかけられたとある箇所だ。あの時期には吉本は政治新聞でも作り、70年に向かう政治的な動きに関与しようとしていたおもむきがあった。ここには三浦つとむも関係していたのであろうが、そういう気運はあったのだと思う。作者も僕も吉本に応じていたら一緒に新聞を作っていたかもしれない。そんなことをあれこれと思い起こさせてもくれた。